ああ、8月も終わりますね。
今年は、ずっと家にいて、オンライン講座や対談は受講したり試聴したりしたものの、コツコツと小説を書き切った夏でした。
思えば、常勤を辞めた、ここ3年で限定すると、
’23年は、受講していた通信児童文学講座への提出作品がまるで完成できなくて、とにかく苦しかった記憶しかありません。
同作は225枚で完成、9月に一応、長編児童文学新人賞に応募したものの、見事、落選でした。
’24年は、今、ちょうど改作作業中の、文學界新人賞への応募作品150枚をひたすら推敲していた気がします。
過去のメモ日記を読み返すと、8/31時点で「133枚書いた」とありました。
この作品、僕的には今、読んでも、そう悪くないのですが、苦笑。
だから、改作しようと思ったわけなんですが、1年後の僕の目から見ると、全然「読み手ファースト」じゃないんですね。
もちろん、純文学系なので、エンタメ系のそれとは全く違う「読み手ファースト」感覚なのですが。
今の僕は、半分、大江健三郎になっていますから……爆笑 ٩( ᐛ )و
1年前の僕は、「はて? 純文学って何? 僕が書きたいものは何?」と着地点もわからず、書いていましたが、
今はまるで違うのでね。
同じようにするか否かは別にして、比較対象として、大江健三郎がそこに、帰着点に立っています。笑
これは、この間も、ここで書きましたが、
7月の初旬の僕と、今の僕は大きく「生まれ変わった」と思うぐらい、長編小説へのスタンスが激変しています。
当然、1年前とは全く違います。
コツコツと発見や経験、知見を重ねた上での変化なので、もちろん、連続しているんですが、
今回、8月下旬の、大江健三郎効果で大幅に変容してますからね。
バドミントン、空手や洋画など様々な身体活動や創作活動をしてきたので、上達するときは、どこかで階段を上がるようにジャンプするものなんだとは理解しているし、経験済みなんです。
10代、20代の頃、読んで、「へえー」と感心するだけで、すごく遠い存在だった大江健三郎が、たかが10日ほど昔の講座受講前から、
その初期短編作品群の分析読みをして以来、すごく身近に感じます。
特に、若き大江健三郎が、今後、僕の大きな道標になりそうです。
彼の作品自体もそうなんですが、大江の語る他の小説への視点、姿勢、文学観(その左派史観は受け入れ難い)すらも、そのまま受け入れる訳では決してないのに、
自分との相違点すらも非常に対照できて、すごく役立ちます。
下の本なんかもそうでした。
まだまだ【ストーリー展開の呪縛】思考から、逃がれられていないので、つい無意識に、創作時もまだ、そう思考してしまうのですが、
その度に思い出す大江作品が自分を勇気付け、変化へ誘います。
その難解さも、自分の分析読みが抽象化することで、別物にしてくれます。
何よりも、自分のその感覚的な理解方法が、元々ある自分の現代詩の書き方と呼応していた結果、両者が融合してしまったと思われるため、
もう後戻りができません。
詩の書き方すらも、作品も、大きく変わってゆく予感がしています。
なんせ、書いている人間は同じ僕ですから。

