「人」と「人ならざる者」へ書く。これが、エンタメか、純文学か、小説の「別れ道」か | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

7月中旬から、延々と取り組んで、ずっと書いているエンタメ系長編小説。

今、8:00の段階で146枚。

昨日の朝よりは、プラス3枚。

 

もう「結」へ向けての、まとめ段階なので、伏線を回収したり、置き忘れた伏線を戻って書き加えたりするから、ただひたすら新しいのを書き加える作業じゃなくなっている。

だから、執筆速度が鈍化した。

また、すべての伏線を置き終えたら、あとはひたすら書くだけになるのは、経験済み。

 

とりあえずは、目標の200枚まで、あと54枚、描けばいい。

それから、足らないところ、余分なところを推敲する。

今回は、〈どうなるどうなるエンジン〉を読み手に、絶えず働いているかどうかのチェックを忘れずに、自分・書き手ファーストにならないようにも気を付ける。

 

ここまで来ると、意識が半分、現実世界から遊離してしまっている。

その想像した世界に、意識が残ってしまう感覚。

詩のときのような、切り替えスイッチは存在しない。

 

どんなに失敗作品でも、こうして創った作品世界は、何年経っても、どこかに残っていています。

今回の長編の元になったのは短編33枚もそうで、数年前に書いたもので、非・ファンタジー作品だったのに、

その前後に、不思議現象を入れて、ファンタジー化しました。

 

たぶん、もっと早く不思議を示さないといけないという考え方もあるんでしょうが、

それは無視。笑。

いや、最初の前半・中盤過ぎまでが、ほぼ全編リアリズム的な青春小説になっています。

(もちろん、後半のために、一部ファンタジー用の伏線・仕掛けは置いています)

要は、面白ければそれで良いんですよ。

今回、そのリアリズムがあっての、ファンタジーを楽しませるのが狙いとしたいので。

 

そんな荒技ができるのも、長編・中編小説だからこそだと思っています。

 

今、書いている、この部分が「転」で、ファンタジー発動になっています。

この残りは、それをどう収めるか、なんですね。

 

同じ幻想性があっても、純文学系とエンタメ系では書き方が、幻想への向き方が180度、違うと思っています。

わかりやすくいえば、エンタメ系はその幻想の発動条件が論理的に決まっていて「謎」じゃない。

謎に「答え」を用意して書き込み、読み手へ知らせます。

 

純文学系なら、答えは示さないかな。

ある意味、「謎」のままで終わり、答えは読み手に「書いてない部分」から想像し、再現し見つけてもらう。

 

 

昨日、言及した村上春樹作品なんて、「謎」は解き明かされない、ちょっぴり幻想性がある。

いや、それを現代詩的なメタファーとして表現しているから、一見、エンタメ系じゃないように見えるんでしょうね。

『ノルウェイの森』が100%リアリズム小説を書こうと意図した、という日高教授の言(正確には、春樹自身が言っているんですが)を経ると、

僕はそう感じます。

 

今なら、わかります。

自分が、18年前、童話・小説を書き始めたときに、好きな村上文学から、極力離れていたかった理由が。

 

たぶん、僕のやろうとしている文学世界は、一部、村上春樹的なんだからだ、と思います。

そのまま近くにいたら、文体も、作品世界も、村上春樹という巨星の引力から逃出できなくなってしまう。

 

今、現在の僕は、自己認識として、現代詩人でありつつ、他の短歌・川柳なども経た、エンタメ系も純文学系も書ける立ち位置(プロ・レベルでないにしろ)に達している、と考えています。

飲み込まれても、吸収しつつ、脱出できる個性はあるかな、とも思っています。

 

多くの、エンタメ系の作家の創作教室で学んだ経験値もありますから。

さらに、25年間近く、学ビストとして、さまざまな大学通信教育や、創作講座でさまざまな文芸に学んだ経験値も、山ほどあります。

 

また、同じ神戸に育った人間としての風土性から、ひと世代違うんですが、ムラカミ文学への親和性はありつつ、

僕はPC自作もする第1世代オタクであり、絵画・美術への造詣といい、バドミントンやら空手格闘技やら、ムラカミさんとは違います。

 

どうやら、純文学系は、昨日も引用した井戸川射子さんの言葉「人ならざる者に向けて書く詩と(純文学)小説」がヒントになると思っています。

今日、述べたこととの整合性でまとめると、純文学系小説における「謎」の答は「人ならざる者」は持っているんですね。

実際、良い詩は、(僕の作品の中であっても)答えは、ありません。

読み手の中にありますからね。

 

詩の場合、そうして書こうと思って書くのじゃありません。

言葉が、言葉を呼ぶんですね。

それは、散文である小説と、韻文である詩の特性の違いから、容易さが違うんでしょうか。

なら、純文学系は、散文詩と同じく、どこかで「翔んで」地上から離れていれば、いいんでしょうか。

これなら、納得です。

 

僕は、純文学系小説を散文詩だと思って描けば良いということになります。

これを比喩的に書けば、「人ならざる者」要素を多めにしたら、別ジャンル・別料理になる、ということでしょうか。

 

と、書き始めから、意外な発見・納得に至りました。

でも、今、書いているのはエンタメ系。笑

 

次、純文学系だから、これで良し、ですかね。

文学を神格化する気持ちが僕の中に根強くあって、小説を書く際に邪魔をする。

神格化はしない、でも、「人ならざる者=文学の神?』は登場(=隠れてますが。近寄ると逃げる猫みたいな存在)させよう、ってことか。

 

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