昨日、7/5(土)のアクセス数が301でした。
さて、昨日は、佛教大学OLCの「村上春樹を読む」第4回の見逃し配信をやっと見終わりました。
今回は、’60年代や’80年代文化が『ノルウェイの森』へどう反映しているかがテーマだから、小説創作的にはあまりヒントはなかった。
でも、ポストモダン的な立ち位置から、村上文学がこの作品ではっきりと近代文学的な物語(小説)伝統へ入った、というのは面白かった。
非・ストーリー展開的な小説も、村上春樹以外にもあるんだけど、その構成を考える手掛かりになりそうな予感を感じた。
もちろん、これは日高芳樹教授の意図とは違うアプローチだし、知見なんだけどね。
この講義は、あと2回あって、次回が7/31、その次が9/11。
「小説とはなんだろう」
僕のこの疑問を、この前受けた東京学芸大学・教授の疋田雅昭教授の文学理論で、こういった文学講座と合わせ技で考えると、
すごく面白いんです。
自分の中の、間違った思い込みが白日の元に晒されるから。
不器用な僕は、頭で理解し、感覚で体感したものと照らし合わせて、初めて習得できるんですよね。
昨日も来たかもしれないけど、最近、取り組むエンタメ系小説の読み手ファースト感覚って、「面白く筋を書けばいいだけじゃん」では無いです。
様々な思い込みや、小説構造の理屈に反したことを取っ払わないと、少なくとも、僕は小説が本当には書けません。
もちろん、そんな理解なくても、キャラがいて、ストーリーが展開さえすれば、「小説っぽい」のは書けますよ。
でも、それ、面白くないし、二度とは読む気にならないです。
当然、入選も入賞もしません。
そのやり方は、18年間、さんざん試しました。
僕には無駄です。
そのやり方で、「才能」ある人は小説が書けるんですが、才能のない僕は無理だし、無駄な行為です。
ライトノベル・大人向けライト文芸の優れた作品は、それでは書けませんから。
故・野村監督が言った「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負け無し」は至言です。
下手な(負け)小説は、不思議でも何でもなく、全部、理屈でダメ出しできるんですよね。
今日は小学校の開放教室でのバドミントン・コーチの日なので、午前中は潰れます。
午後は、何とか、ノベル大賞の大賞作品の読解分析をしたいです。
ところで、話は変わりますが、
伊東市の女性市長の学歴詐称が話題になっています。
僕も一応、通信制とはいえ、東洋大学の卒業生になるので、気になりました。
卒業証書には、通信制を卒業しても、その文言は入りません。
(写真お隣の、旧:京都造形芸術大学に文芸コース卒業分でもそうでしたし、慶應通信でもそうでしたよ)
伊藤市長も、除籍で東洋大学にこだわるんだったら、通信制に再入学して勉強したらいいのに、と通信オタクの僕は思ってしまいました。
名前と生年月日は消しています。
市長がチラ見させた証書って、他人のもの? それとも偽造したんですか?
名前は、冒頭の生年月日の右横ですから、結構、ガバッと見せないと確認できませんよ。


