白鳥省吾賞の清書と印刷 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

7月が来たので、書き終わっていた白鳥省吾賞の詩作品を1編、清書して印刷する。

1ヶ月経つと、題名と雰囲気しか覚えていない。

 

読み直すと、

ああ、こう書いたな、と思い出す。

特に詩の場合、数週間経つと、自分で書いた文言が展開も含めて、はっきりとは思い出せなくなる。

言葉が言葉を産んでいるケースが多いから。

 

先月、行った朝日カルチャー新宿教室の荒川洋治先生のアドバイスを思い出す。

(その内容どころか、さわりも書いてはダメと注意が来たので、書けません。ビックリでした)

すると、数箇所、書き直した方がいい箇所が見つかる。

特に、先生のアドバイスがヒントになった訳ではなく、直した箇所の動機は全くの無関係なんだけどね。

 

何度も推敲すると、

ラストの印象が大きく変わりました。

 

自分の詩じゃない、と思って、読者目線で客観分析する(それこそ小説の文学理論を採用して)と、

ラストの少し前をちょっこと変えた文言なのに、

元原稿とは、まるで別の詩に感じます。

 

うん、ちょっとのことで、ずいぶんマシになった。

4倍増、ぐらい違う。

大袈裟だけど。

ラスト付近だったせいか、詩全体が……なんか、信じられないぐらい違う、気がする。

 

いつも、気持ち優先で詰めが甘かったんですね。

 

この賞は、珍しく2編、送れるので、締切の10/31までに、もう1編、思いつけたら、送ろうと思う。

けど、現状、全くの小説書きモードになっているので、そもそも詩のことを思い出せるか、すらも怪しい、と思う。

10月なら、文學界新人賞への去年の落選作の再改稿が済んで、太宰治賞への新規作品へ取り掛かっている頃だからね。

 

僕の場合、書き始めるまでの構想時期は、日常の生活以外は「どう書くか」「何を書くか」で頭がいっぱいになるので、他の創作を新規に創るのは難しいんです。(当タリ前カ?)

今回のような、既にできた詩をちょこっと直す程度なら、すぐ戻れるので大丈夫ですが。

その小説作品を書くモードになること自体が、すごくエネルギーや集中力が要るんですよ。

詩の場合なら、簡単にモードになれるし、日常との出入りも楽なんですが。

 

作品書きモードに入ると、できるだけ、それを崩さないように努めないと、

それはシンデレラの魔法のようにすぐ解けちゃって、カボチャは馬車には戻りません。

 

でも、そのシンデレラ・モードは、外から見ると、

ぼーっとしている、遊んで暇そうに見えるので、相方から用事が山ほど振られるのですが。

 

まあ、ひどい時は1ヶ月半ぐらいグダグダしてますからね。

 

今回の小説現代長編新人賞は、締切7/31だし、もともと考えていた既存の児童文学の落選作250枚の、大人向け小説への全面書き換えは難しそうなので、

果たして、本当に応募できるかも怪しくなってきました。

 

他のもっと短い、100枚とか、50枚とかの作品や、途中で、30枚目ぐらいで放棄して完成しなかった作品なんて、その辺にごろごろあるので、そいつらを書き足した方がいいかもしれない。

 

まだね、6/30に書き上げた、集英社オレンジ文庫の短編小説新人賞を書いた時の、モードの切れっ端が残っています。

そこを辿って行けば、その感覚でモードへ題材を変えても移行できそうな気がしています。

同じエンタメですから。

今日はフルの休日で、自由に使えます。

昨日、不在者投票にも病院にも行ったから、佛教大学OLCの村上春樹の残りのビデオを受講して、またジムへトレーニングに行くだけです。