7月が来たので、書き終わっていた白鳥省吾賞の詩作品を1編、清書して印刷する。
1ヶ月経つと、題名と雰囲気しか覚えていない。
読み直すと、
ああ、こう書いたな、と思い出す。
特に詩の場合、数週間経つと、自分で書いた文言が展開も含めて、はっきりとは思い出せなくなる。
言葉が言葉を産んでいるケースが多いから。
先月、行った朝日カルチャー新宿教室の荒川洋治先生のアドバイスを思い出す。
(その内容どころか、さわりも書いてはダメと注意が来たので、書けません。ビックリでした)
すると、数箇所、書き直した方がいい箇所が見つかる。
特に、先生のアドバイスがヒントになった訳ではなく、直した箇所の動機は全くの無関係なんだけどね。
何度も推敲すると、
ラストの印象が大きく変わりました。
自分の詩じゃない、と思って、読者目線で客観分析する(それこそ小説の文学理論を採用して)と、
ラストの少し前をちょっこと変えた文言なのに、
元原稿とは、まるで別の詩に感じます。
うん、ちょっとのことで、ずいぶんマシになった。
4倍増、ぐらい違う。
大袈裟だけど。
ラスト付近だったせいか、詩全体が……なんか、信じられないぐらい違う、気がする。
いつも、気持ち優先で詰めが甘かったんですね。
この賞は、珍しく2編、送れるので、締切の10/31までに、もう1編、思いつけたら、送ろうと思う。
けど、現状、全くの小説書きモードになっているので、そもそも詩のことを思い出せるか、すらも怪しい、と思う。
10月なら、文學界新人賞への去年の落選作の再改稿が済んで、太宰治賞への新規作品へ取り掛かっている頃だからね。
僕の場合、書き始めるまでの構想時期は、日常の生活以外は「どう書くか」「何を書くか」で頭がいっぱいになるので、他の創作を新規に創るのは難しいんです。(当タリ前カ?)
今回のような、既にできた詩をちょこっと直す程度なら、すぐ戻れるので大丈夫ですが。
その小説作品を書くモードになること自体が、すごくエネルギーや集中力が要るんですよ。
詩の場合なら、簡単にモードになれるし、日常との出入りも楽なんですが。
作品書きモードに入ると、できるだけ、それを崩さないように努めないと、
それはシンデレラの魔法のようにすぐ解けちゃって、カボチャは馬車には戻りません。
でも、そのシンデレラ・モードは、外から見ると、
ぼーっとしている、遊んで暇そうに見えるので、相方から用事が山ほど振られるのですが。
まあ、ひどい時は1ヶ月半ぐらいグダグダしてますからね。
今回の小説現代長編新人賞は、締切7/31だし、もともと考えていた既存の児童文学の落選作250枚の、大人向け小説への全面書き換えは難しそうなので、
果たして、本当に応募できるかも怪しくなってきました。
他のもっと短い、100枚とか、50枚とかの作品や、途中で、30枚目ぐらいで放棄して完成しなかった作品なんて、その辺にごろごろあるので、そいつらを書き足した方がいいかもしれない。
まだね、6/30に書き上げた、集英社オレンジ文庫の短編小説新人賞を書いた時の、モードの切れっ端が残っています。
そこを辿って行けば、その感覚でモードへ題材を変えても移行できそうな気がしています。
同じエンタメですから。
今日はフルの休日で、自由に使えます。
昨日、不在者投票にも病院にも行ったから、佛教大学OLCの村上春樹の残りのビデオを受講して、またジムへトレーニングに行くだけです。