この佛教大学OLCの「村上春樹 『ノルウェイの森』を読む 第二回」は面白かった。
前に、村上春樹の研究講座は、放送大学の山口学習センターで’24年にも受講したけど、あれはあれで面白かったけど、それ以上の面白さがある。
それは、僕の側の準備体制の差と、今回の講義内容が、「短編「蛍」がいかに長編『ノルウェイの森』になったのか」の、その差異を講義するからだと思う。
それって、長編小説の書き方がわからない、とずっと考えている僕に、ドンピシャだからね。
以下は、僕流の理解と考察で、講義中に村上春樹のベスト短編として挙げられた「午後の最後の芝生」(第1短編集『中国行きのスロウ・ボート』に所収)を、述べたもので、
佛教大学の日高芳樹先生の講義とは無関係です。
結局は、この短編は、主人公「僕」の人物群についてと、その恋人の彼女や客の人物群とのふれあいであり、
その経過が特に彼女側についても、サブ側の一つとして追加されて、交互に語られている、という解釈も成り立つな。
すると、基本、章立てとしては同じ一場面ごとの流れに見えるが、実際は(日高芳樹教授の指摘した村上春樹の特徴である)二つの場面の交互語りの構造と同じ流れになるのか。
主人公「僕」の「場」と、相手側の「場」と、二つが順番に語られているようにも感じられた。
これは、以前の去年12月までの僕には絶対、見えなかったし、理解できなかった構図だ。
また、相手の人物群の意思により事件が起きたり、新しい提案がなされ、そこに発見と謎があり、解き明かされる。
そして、その逆に、各断片(独立した章立ての時も、章の中で複数パートの一つと化している時も)ごとに解決や世界観まとめされている気がする。
だから、消化試合的な感じや、引きの伸ばしの飽きが来ない効果がある気がする。
書いてある事柄だけを見ると、それぞれの断片間の繋がりが薄く取り止めがない語り口だが、
書かれていない隠されたゲシュタルト空間では、深くつながって、積算され続けている継続感もある気がする。
それと、僕の中に、村上春樹は凄い、真似できない、好きだのファン心理があるっせいか、
読み始めると、小説の神格化がさらに酷い症候群として出てきて、考察の眼が曇ってしまう。
だから、ずっと客観的に読めないできた。
今回、冷静に読むと、この短編の冒頭箇所は、小説の語りというよりもエッセイ的な語りなんだよね。
ある意味、絲山秋子的な語り口。
後半の小説パートのイメージが強すぎるから、読後の印象は小説になるし、
読み始めも「これはハルキの小説」だと思って思い込んで読んでいるから、まるで気づかないんだけどね。
で、今回の理解を基に、自分の小説の書き直し作業をやらないといけない。
今回の村上春樹の理解だけでなく、ここ1ヶ月の間に、小説について、かなりいろいろと学べたから、やりたいことが山ほどできた。
どれから試したらいいか、逆に訳がわからなくなってしまった。笑
到底、1作品では詰め込めないし、試しきれないから、幾つもに分けてやってみるつもり。
とにかく、自分の〈書かないぞリミッター〉を外すことか。
