ひたすら、レイモンド・カーヴァーを読む。同時に坪田信貴「才能の正体」からの言葉 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

さて、5月も3日になりました。

このまま、うかうかとしていたら、すぐ中旬になり、仕事が繁忙期に突入するので、それにかまけていると、

すぐ下旬になるのが、もう目に見えております。

 

 

 

僕が、このブログで前に書いた、坪田信貴さん(ビリギャルの先生)の本に、こういう趣旨の言葉がありました。

 

〈できない結果だけに着目して、自身の才能や欠如を責めるWHY型思考スタンス〉ではなくて、

〈できていない現象と部分に着目して、どうすればいいか考えるHOW型思考スタンス〉に変えよう、と。

 

プラスでその理由を考えるWHYなのがあるべき姿なんだよな。

本来、僕は前者の〈結果の書け書け式〉より、後者の〈可能性を探るワークショップ式〉をバドミントンの先生を始め、多くの導師から学んだ学ビストのはずだ。

 

その違いは見ている結果現象は同じでも、全然違う心の働きだ。

でも、現状の僕には、ついWHy型になって、自分を責める癖がある。

 

坪田さん、曰く、

世間の人は流氷の海面上にある結果だけを着目して、何十倍も大きい海面下を見ないで、WHY型の才能の有無で片付ける、と。

HOW型は海面下を伸ばす。

結果は後からだね。

5W1Hの中でHowとWhat以外は名詞で答えにできる知識だが、この二つは答えがない。

 

だから、このGW中に、永井荷風新人賞100枚を書き出さないと、また付け焼き刃作品になりそうに思っています。

それは嫌なので、なんとか書き出さないといけません。

 

とにかく、現状の僕の場合、小説を書く際は、「絶対、傑作を書けよ。無駄に時間を使うな」、

「駄作は書くなよ。これ駄作じゃんか。やめろ、やめろ。やり直せ」、「才能ないな。無能! 辞めちまえ」などと、

細々とチェックしてくる、自分のなかにいる、左脳審査官が邪魔します。

 

こいつを、まず倒すか、納得させて黙らせないと、小説が書けません。笑

(詩の場合は、勝手に書けるんですがね。

 書き終えた後で、左脳審査官が講評するのを適当に聞いて、推敲するだけなんですが)

 

それが難しい。

なんせ、どこでも付いてくる(当たり前か)左脳くんなので、付け入る隙がない。

駄作だよな、と思っていることを、左脳の相手も知っている。笑

書き始めると、すぐ前記のように喚き出して、書くモチベーションを下げます。

 

で、対抗策を考えました。

それは、ひたすらレイモンド・カーヴァーの短編集を分析読みして、その素晴らしさを堪能する。

左脳審査官が酔い痴れているうちに、「カーヴァーをまねして、オマージュ的に書こうぜ」と誘って、書く作戦を考えています。

抽象的に分解して読み、その作品構造を真似つつ、自作へ転用するので、盗作にはなり得ません。

 

いや、もし完璧に、カーヴァーの文章をコピーできる、つまり、村上春樹の訳文を完全コピーしつつ、かつ、別小説が書けるなら、それはそれで、自分としても読んでみたいです。

そんな離れ技ができるのなら、ほんと、褒めてあげたいですよ。

 

 

 

でも、できないから、どう足掻いても劣化コピーにしかなりません。

 

ともかくも、カーヴァーの短編の面白さの秘訣を読んで、探る、つまり、文字に書いていない表現(!?)を透視しながら、解析しています。

それができるようになったのが、’24年までの僕とは違う、「’25年4月以降の僕」です。

 

書く際は、そのカーヴァーっぽさへ、同時に、エドガー・アラン・ポーの文学理論やら、マンガ原作の方法論やら、村上春樹論やら、ここ1ヶ月の勉強成果も付け加えるので、

単なる劣化コピーにはなりません。笑

 

訳のわからない、ミックスジュースなスムージーには、なるでしょうが。

 

がんばります。