すみません。
のっけから、一般の創作教室の先生に、喧嘩を売りますけど、
〈書け書け式〉の創作方法って、〈賭け賭け式〉で〈欠け欠け式〉じゃないですか?
もちろん、そうじゃないワークショップ式の1段階を間に置く先生は違います。
でも、僕が習った詩や小説、そして、短歌・俳句も、ほとんどが〈書け書け式〉で書いた受講生の作品を、
合評して、ダメな点良い点を指摘して終わり、なんですよね。
それを、僕は〈書け書け式〉と呼んでいます。
実は、バドミントン教室でも、ほとんどが打つ球を「こうだよ」と示すけど、根本原理に分解せず、あとは素振りとノック形式の「打て打て式」で、
あとはシャトルを拾えの「走れ走れ式」バドミントンなんですよね。
(僕のコーチするやり方は違います。身体や筋肉の動かし方から分解して教えます)
「走れ走れバドミントン」では運動能力の高い人だけが上手くなって、下手は下手なまま、です。
「書け書け式の創作教室」でも、下手は下手なまま、に思います。
そんな「欠けた箇所を埋めない」教え方、育てないやり方って、「欠け欠け式」と呼びたいし、上手くなるかどうかは賭けの宝くじ確率なんて、「賭け賭け式」でもありますよね。
(でも、詩を書く方の中には、あくまでも自己表現の延長線上で気持ちよく自分の感情を表現して満足という方もおられるみたいですね。
そんな方は、この頁をお閉じください。
ご不快になるので)
きっと、最後は、バドミントンも、小説も、詩も「才能」、「天賦の才」ですよ。
それはわかっている。
でも……努力する凡人が、努力しない天才を打ち負かすシーンを見たいんですよね、僕は。
僕は、「諦めない亀」なんです。
そして、「教える亀」なんですよ。
ずっと教え教えられる人生でしたから。
うーん、カルチャーセンターで、「文学こと始め」講座をもちたいな。
そのための、もっと大きな賞歴が要るか。
自分のためじゃなくて、言葉に信憑性を持たせたいから。
基本、僕は人のためになら、もう1段階、頑張れる人間なんです。
また、この間の飲み会で、御年90歳に近い詩の大先生から「詩人なんて、小説が書けないヘタレの集まりだ」と言われました。
小説がうまく書けない自分は「Yes」と心の中で頷いてたんですが、詩は絵と同じでヘタウマが許され、「才能」とみなされる感性の表現なんですね。
対して、小説は「下手」は下手なままで、読むに耐えませんから、全然違うんですよ。
今の僕には、その根本的な違いがわかります。
小説はどこかしら「読み手ファースト」で、全てが感情に流されては成立しない窮屈なものなんですね。
「自分(書き手)ファースト」で、ある意味、全てが焦点化人物(≒主人公・主役)中心に展開して、
すべての文が詩情(ポエジー)の奴隷と化す詩は、小説のルール(我が儘はダメで、主人公に肩入れできない)に対応不可能なんですね。
もちろん、ここでも「才能」で、ススっと小説が書ける人種もいるんですよ。
僕は小説がスッと書けない人種でした。
きっと、僕が嘗て、そうだったように、詩が書けない人もいるんだとは思います。
僕はもう息を吐くように、詩のタネが書けるので、書き方は教えられますが、もう書けない元へは戻れません。
一度、乗れた自転車は乗れなくなれないように。
つまり、詩を最初からスッと書く「才能」がなくても、詩人の端くれ程度には到達できている。
だから、多少(いや、だいぶでしたが)無理したら、小説が書けない人間にも、スッとでなくても書かせて欲しいのですよ、小説を。
ね、文学の女神さま。
さて、1ヶ月前までは、ちゃんとした小説を書くのに「あと5%」ほど決定的な何かが足りないと強く感じていました。
今は、たぶん、その5%がわかった、と思います。
これ、昨日、このブログで分析して書いたように、自分で認知できているポイントだけでも幾つもあって、どれが「決定的」だったのか、決めかねています。
また、これも書いたように、もともとあったものを引き出しから出して着た服だった側面もあって、まるでよくわかりません。
今日も、明日の仕事の準備を数時間かけてしつつ、トレーニングに行って、残った数時間で、永井荷風新人賞むけの小説の構想を立てます。