さて、昨日のブログの続き記事になります。
改めて書きますが(ご存知の方は同じ話で申し訳ござません)、僕の今から40年近く前の通学制の大学文学部を卒業した際は、
日本文学を専攻して、専門は近代文学、卒論は「(「荒地派」の現代詩人の)黒田三郎」でした。
黒田は、詩集『ひとりの女に』や『小さなユリと』が有名で、吉野弘と並ぶ、現代における抒情詩の頂点を描いた詩人です。
こう書くと、堅苦しいですが、すごく平易な言葉で、誰もが書けそうで絶対書けない、深い抒情詩を残しました。
この辺は書いたことがなかったですが、その頃、おバカな片思いを僕もしていたので、『ひとりの女に』は心に染み入りました。
きっと、今詩人の端くれになって、普段、難解な象徴詩ばかりを書く詩風なんですが、その心の底流にあるのは、抒情詩なんだと思います。
(ときどき、どうしようもなく抒情詩を単発で描きますが、その時は童話作家モードも混入している気がします)
そうそう。
照れ屋で間抜けな性格なので、書きたくないんですが、僕の創作エネルギーの出発点は女性との関わりです。
その報われない想いがマグマのように溜まって、出口を求めて、美術や文学に結晶化していったようです。
きっと、報われていたら、もっと普通に生きられたかもしれません。笑
さて、ここで急に、何度も行った経歴紹介に戻ります。
で、美術実作系でデッサン、油彩画、アートアニメーション創作、マンガ研究、絵本の研究・創作を、いろいろと長く何十年もやりました。
そこを経て、童話・物語を書き出したのが’07年の終わり。
’10−12年の京都芸術大学の通信文芸コースを経て(果たして、どれだけ役立ったのか、余計に小説創作がわから無くなる)、’16年12月に、その物語・小説系創作へ詩の創作も開始しました。
なぜ、ここで、旧知の方には自明の経歴を繰り返したかというと、昨日も書いた「おお、これ、長い小説が書ける書き方・スタイルじゃん」と自覚できた件についての説明で必要だからです。
僕は、30枚あたりまでの短編小説なら、それなりに書けるスキルはもうあると思っております。
ところが、100枚以上の長い小説になると、単に短編を水増しした文章しか書けていない自覚が、ずっとありました。
事実、50枚以上は1次選考すら通りませんでしたしね。
僕の認識では、章が書けていない。
そこで終わらせるのなら、書けるけど、表面的に続く形でしか書けなかったんですね。
今、思うと、長編では(100枚はプロ世界では短編扱いだと知っております)各章は章で読み手を楽しませつつ(=内容があるということ)、結末へ展開させてゆく。
この「楽しませる」とは、決して単なる伏線置きや情報伝達ではなく、プラス「人物たちの人間像や場面を描き切っている」ことを指すだのだと薄々、気づいてはおりました。
それができなかったのですが、今は、ようやく、できかけていると感じております。
どうやって、と問われても、まるで言語化できません。
それぞれの作品ごとに違うので。
実作を読んでもらえたら、「ここがね」と指摘して、「こうなんだ」と説明可能ですが。
ただ、なぜそうなんなったかの説明は解析できています。
(今朝、1:30ごろ目が覚めて、何故か急に分析結果を書いてみたくなり、書き置きました)
①詩の感覚(外形描写と象徴詩、省略・ゲシュタルト感覚)
マーサ先生からの「〈外形描写〉」されずに〈心象風景(描写)〉ばかり」ですね」の問題提起で生まれた疑問を拡張・融合した感覚。
行分け詩の省略感覚と象徴詩が僕のデフォルト(=ゲシュタルト表現)だったから、物語の悪癖【展開の呪縛】には完全に染まってなかったものを、やっと汲み取れる。
②エッセイ・論理表現感覚(日々書いているブログ感覚)
前まとめ文を段落に置き、そのパラグラフを支配する感覚。例示と抽象化の往来で、これ細谷式の【抽象化度項目の把握思考】があると、コントロールできると気づく。
③読解力からのゲシュタルト空間の認知
前述の【抽象化度項目の把握思考】の感覚って、僕の場合、小説作品を読み、読解分析する時に、フル回転させるもので、前から持っていました。
ところが、それを書く際に、何故か今までは起動できなかった。
それが細谷式と、この間の、疋田雅昭教授の講義で、自由自在に扱えるようになりました。
不思議。
自転車に乗れるようなもので、もうできなかった過去へは戻れない。
④どこかに短歌・短詩型の感覚と、丘辺先生の4枚小説感覚
文章を書きながら、驚嘆(発見)と共感のポイントを探す、どこにおこうかの書きながら思う。
これは、短歌・川柳の感覚だ。
これも、散文を、というか、ストーリーを考えていると、全く起動しなかったもの。
今は、起動している、と感じる。
しかも、そこへ岡野大嗣さんのピークポイントと感覚重視ニュアンス(これは現代詩感覚との合わせ技)も探し、置いている気がする。
で、それに近しく、どう冒頭に置き、読み手を無駄なく誘導するかに徹する、丘辺先生の4枚小説講座での、構成感覚も付随して、起動できている気がする。
⑤某小説教室での学び+マンガ原作→ビジュアル映像系の感覚の賦活・再活性かも
書きながら、時々、ふっと蘇る某先生の言葉。
「登場人物のセリフ(で、その人物の生き様を表現する)を大事にすること」、
「場(その小説空間のリアリティも含めて)を何十万人規模の都市か、考える(=生活感を帯同させて仕上げる)こと」
それらが、この間の、マンガ原作の研究で学んだ、「主人公の歩いた軌跡を記録する」ってことがマンガだよ、が何故か融合している。
もともと、小説書きながら、場面がビジュアルで頭の中で浮かんでしたからだと思います。
それを今まででも使ってたけど、何故か、今、書きながら、前記の①から④と融合しながら、使っている気がします。
それ、アートアニメーションや絵本を描いていた時の感覚に、近しい、です。
20年近く前の伏線回収なのが、怖いです。
* * * * * * *
なんてことはない。
どれも今まで学び、所持していた文章感覚(プラス絵画系物語のビジュアル感覚)、学ビスト経歴や体験を、フルに動員できたってだけ、のこと。
でも、それがなぜか、今までできなかったんだよね。
習得できたキッカケは、直近では、マンガ原作、レイモンド・カーヴァー分析、細谷功式の抽象度感覚+疋田雅昭教授の講義になりますか。
特に、こうして分析できるのは、最後の、細谷功式と早稲田EXTの疋田教授による、「抽象的な知の再構築」おかげです。
すでに、3月までと別人物に近くなって生まれ変わった感が自覚でき、見事に結集されたな、の思いが強くあります。
こうして、書いて要点をまとめていると、この①から⑤の想像上のスイッチに触れて、「あるある、ここに」という感覚があります。
「ああ、あるなあ、ここに」って。
まあ、長く長く何十年もやってきた、培ってきた、どれも「僕」という中に紛れもなく、ある感覚ですから。
1-3月は、小説の書き方がわからなくて、自分のダメさ加減をひたすら責めていたのに、まるで嘘のようです。
あそこで、考えるのを、迷って苦しみ、それでも立ち向かうのを、諦めないで良かった。
今、シンクロニシティを受けとる強さと、その変貌力のすさまじさに驚嘆していますね。
何度も経験していて、起きればそうなると分かっていても、実際、経験すると、自分でも怖い、です。
もちろん、気が遠くなるほど長く苦しい時間に耐えて、無駄と感じる努力も果てに、たまたま(?)手に入る場合もある程度の偶発性なので、
それがまた恐ろしいです。
自分でコントロールできるものじゃないので。