さて、まだ小説書きモードのままです。でも、「小説? それってさあ」と解析してみました | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

さて、昨日のブログの続き記事になります。

 

改めて書きますが(ご存知の方は同じ話で申し訳ござません)、僕の今から40年近く前の通学制の大学文学部を卒業した際は、

日本文学を専攻して、専門は近代文学、卒論は「(「荒地派」の現代詩人の)黒田三郎」でした。

黒田は、詩集『ひとりの女に』や『小さなユリと』が有名で、吉野弘と並ぶ、現代における抒情詩の頂点を描いた詩人です。

こう書くと、堅苦しいですが、すごく平易な言葉で、誰もが書けそうで絶対書けない、深い抒情詩を残しました。

 

この辺は書いたことがなかったですが、その頃、おバカな片思いを僕もしていたので、『ひとりの女に』は心に染み入りました。

きっと、今詩人の端くれになって、普段、難解な象徴詩ばかりを書く詩風なんですが、その心の底流にあるのは、抒情詩なんだと思います。

(ときどき、どうしようもなく抒情詩を単発で描きますが、その時は童話作家モードも混入している気がします)

 

そうそう。

照れ屋で間抜けな性格なので、書きたくないんですが、僕の創作エネルギーの出発点は女性との関わりです。

その報われない想いがマグマのように溜まって、出口を求めて、美術や文学に結晶化していったようです。

きっと、報われていたら、もっと普通に生きられたかもしれません。笑

 

さて、ここで急に、何度も行った経歴紹介に戻ります。

 

で、美術実作系でデッサン、油彩画、アートアニメーション創作、マンガ研究、絵本の研究・創作を、いろいろと長く何十年もやりました。

そこを経て、童話・物語を書き出したのが’07年の終わり。

’10−12年の京都芸術大学の通信文芸コースを経て(果たして、どれだけ役立ったのか、余計に小説創作がわから無くなる)、’16年12月に、その物語・小説系創作へ詩の創作も開始しました。

 

なぜ、ここで、旧知の方には自明の経歴を繰り返したかというと、昨日も書いた「おお、これ、長い小説が書ける書き方・スタイルじゃん」と自覚できた件についての説明で必要だからです。

僕は、30枚あたりまでの短編小説なら、それなりに書けるスキルはもうあると思っております。

ところが、100枚以上の長い小説になると、単に短編を水増しした文章しか書けていない自覚が、ずっとありました。

事実、50枚以上は1次選考すら通りませんでしたしね。

 

僕の認識では、章が書けていない。

そこで終わらせるのなら、書けるけど、表面的に続く形でしか書けなかったんですね。

今、思うと、長編では(100枚はプロ世界では短編扱いだと知っております)各章は章で読み手を楽しませつつ(=内容があるということ)、結末へ展開させてゆく。

この「楽しませる」とは、決して単なる伏線置きや情報伝達ではなく、プラス「人物たちの人間像や場面を描き切っている」ことを指すだのだと薄々、気づいてはおりました。

それができなかったのですが、今は、ようやく、できかけていると感じております。

 

どうやって、と問われても、まるで言語化できません。

それぞれの作品ごとに違うので。

実作を読んでもらえたら、「ここがね」と指摘して、「こうなんだ」と説明可能ですが。

 

ただ、なぜそうなんなったかの説明は解析できています。

(今朝、1:30ごろ目が覚めて、何故か急に分析結果を書いてみたくなり、書き置きました)

 

①詩の感覚(外形描写と象徴詩、省略・ゲシュタルト感覚)

マーサ先生からの「〈外形描写〉」されずに〈心象風景(描写)〉ばかり」ですね」の問題提起で生まれた疑問を拡張・融合した感覚。

行分け詩の省略感覚と象徴詩が僕のデフォルト(=ゲシュタルト表現)だったから、物語の悪癖【展開の呪縛】には完全に染まってなかったものを、やっと汲み取れる。

 

②エッセイ・論理表現感覚(日々書いているブログ感覚)

前まとめ文を段落に置き、そのパラグラフを支配する感覚。例示と抽象化の往来で、これ細谷式の【抽象化度項目の把握思考】があると、コントロールできると気づく。

 

③読解力からのゲシュタルト空間の認知

前述の【抽象化度項目の把握思考】の感覚って、僕の場合、小説作品を読み、読解分析する時に、フル回転させるもので、前から持っていました。

ところが、それを書く際に、何故か今までは起動できなかった。

それが細谷式と、この間の、疋田雅昭教授の講義で、自由自在に扱えるようになりました。

不思議。

自転車に乗れるようなもので、もうできなかった過去へは戻れない。

 

④どこかに短歌・短詩型の感覚と、丘辺先生の4枚小説感覚

文章を書きながら、驚嘆(発見)と共感のポイントを探す、どこにおこうかの書きながら思う。

これは、短歌・川柳の感覚だ。

これも、散文を、というか、ストーリーを考えていると、全く起動しなかったもの。

今は、起動している、と感じる。

しかも、そこへ岡野大嗣さんのピークポイントと感覚重視ニュアンス(これは現代詩感覚との合わせ技)も探し、置いている気がする。

 

で、それに近しく、どう冒頭に置き、読み手を無駄なく誘導するかに徹する、丘辺先生の4枚小説講座での、構成感覚も付随して、起動できている気がする。


⑤某小説教室での学び+マンガ原作→ビジュアル映像系の感覚の賦活・再活性かも

書きながら、時々、ふっと蘇る某先生の言葉。

「登場人物のセリフ(で、その人物の生き様を表現する)を大事にすること」、

「場(その小説空間のリアリティも含めて)を何十万人規模の都市か、考える(=生活感を帯同させて仕上げる)こと」

それらが、この間の、マンガ原作の研究で学んだ、「主人公の歩いた軌跡を記録する」ってことがマンガだよ、が何故か融合している。

もともと、小説書きながら、場面がビジュアルで頭の中で浮かんでしたからだと思います。

それを今まででも使ってたけど、何故か、今、書きながら、前記の①から④と融合しながら、使っている気がします。

 

それ、アートアニメーションや絵本を描いていた時の感覚に、近しい、です。

20年近く前の伏線回収なのが、怖いです。

 

*   *   *   *   *   *   *

 

なんてことはない。

どれも今まで学び、所持していた文章感覚(プラス絵画系物語のビジュアル感覚)、学ビスト経歴や体験を、フルに動員できたってだけ、のこと。

 

でも、それがなぜか、今までできなかったんだよね。

 

習得できたキッカケは、直近では、マンガ原作、レイモンド・カーヴァー分析、細谷功式の抽象度感覚+疋田雅昭教授の講義になりますか。

特に、こうして分析できるのは、最後の、細谷功式と早稲田EXTの疋田教授による、「抽象的な知の再構築」おかげです。

すでに、3月までと別人物に近くなって生まれ変わった感が自覚でき、見事に結集されたな、の思いが強くあります。

 

こうして、書いて要点をまとめていると、この①から⑤の想像上のスイッチに触れて、「あるある、ここに」という感覚があります。

「ああ、あるなあ、ここに」って。

 

まあ、長く長く何十年もやってきた、培ってきた、どれも「僕」という中に紛れもなく、ある感覚ですから。

1-3月は、小説の書き方がわからなくて、自分のダメさ加減をひたすら責めていたのに、まるで嘘のようです。

 

あそこで、考えるのを、迷って苦しみ、それでも立ち向かうのを、諦めないで良かった。

 

今、シンクロニシティを受けとる強さと、その変貌力のすさまじさに驚嘆していますね。

何度も経験していて、起きればそうなると分かっていても、実際、経験すると、自分でも怖い、です。

もちろん、気が遠くなるほど長く苦しい時間に耐えて、無駄と感じる努力も果てに、たまたま(?)手に入る場合もある程度の偶発性なので、

それがまた恐ろしいです。

自分でコントロールできるものじゃないので。