昨日は半年に1回ほどある、現代詩・詩論研究会の会合でした。
ちょうど、会の報告書を主催の方から頼まれて書く羽目になったので、少しその内容をいかに引用して書く。
「西条八十。
今回の現代詩・詩論研究会で徐載坤さん(韓国外国語大学の教授)の講演を拝聴するまでは、自分には八十とは文学史上の記号に過ぎなかった。
そもそも、「青い山脈」や「カナリヤ」などの楽曲の歌詞が八十である事実も記憶にはほとんど残っていなかった。
これは多分、多くの令和日本人にも同様だろう。
その歌詞を口遊むことができるけれど、その曲と八十の名前が直接に結びつく者は多くないに違いない。
徐さんの口から、八十がパリ留学したこと、人気詩人で若い女性ファンがその渡仏の際に見送りに来たこと、
ホームシックになったこと、オリンピックに関わったこと、早稲田の仏文教授として優れた業績を残したこと、
次々に浮かび上がる「人間西条八十」の姿。
講義の経過とともに自分の中でその人間像は確実に定着し実体を持つ生きた人間に変貌した。
その驚きと発見をもたらせて頂いた徐さんに、まず御礼を申しあげたい。
どうもありがとうございました、と。
また改めて調べて驚いたこともある。
八十の師である三木露風が僅か四歳上でしかなかったこと。
八十より新しい近代詩を切り開いたイメージがある朔太郎の方が八歳年上だったこと。
浅学な自分には彼らの実年齢が錯綜していた。
明治期の文豪たちの新旧は自分には横の連携が全くなく、早逝した金子みすゞと八十が十歳差な点も作品の新鮮さに反していた。」
うーん、すごく真面目な文。
まあ、当たり前か、ブログと違い、公式な文だからね。
(あと、終わってからの懇親会で、
向かいの席の研究者志望の若い女性に、詩と小説をぜひ書きましょ、と熱弁してしまう。
まあ、酔っ払いの悪質な絡みもどきになっている恐れはありますが、
反応はあったので(錯覚? おべんチャラ?)、大丈夫だっったと思いたい、です。
ともかく、文学に興味のある人を見ると、全員、詩か小説を書かせて見たいんですよ。
それが天命だと信じているので。
やっぱり、ちゃんと創作教室を開くよう、動くだけ動いてみましょう。
酒場の戯言、止まりじゃあ、いけない。)
こうして、詩関係の会合に出ると、詩が描きたくなるけど、グッと我慢。
いつでも、詩は書けるから、「おい、小説、書けよ!」と自分へ呼びかける。
さて、と言いながら、こっそりと書いている詩。
一昨日は、前に書いていた童謡詩を全面改稿して、三木露風へ投函しました。
ついでに、先月はサボった地方新聞への川柳2首も投函。
そのまま、これも書き溜めた詩のタネから、推敲して、資生堂の花椿「詩を探しています」のコンクールへ、
ライトバース系の詩をサラッと書いて、投稿しました。
はい。
童謡詩だろうが、ライトバースだろうが、テーマに合わせて自在に描きますよ。
書きたいと内発したものじゃないと、崇高な文学とは認めない、なんて思いません。
どれも僕の中から出たものなんで、ね。
だって、小説家で、童話も書けば、オシャレな小説からミステリー調、純文学系まで、なんでも書くよ、って人、そう珍しくないでしょう?
僕も昔は、童謡詩は汚れた大人だから書けないと思い込んでいたのですが、幼年童話も描けるようになってからは、同じマインドに少し詩人モードを付け加えたら、
描けるようになりました。
ああ、ついでに、去年刊行した第2詩集を、丸山薫賞へ応募・投函しました。
今月中に、日本詩歌句随筆評論大賞にも詩集を送りたいのですが、これ、1篇単位の応募(3篇までOK)の協会賞もあるので、
落選作した詩篇の中で、お気に入りで、自分としては悪い出来じゃないと思うやつを大幅に改稿するつもりでいます。
どこかへ是非とも「嫁がせて」やりたいやつって、ないですか?
先日、入選した氷見現代詩対象もそうして全面改稿したやつでした。