レイモンド・カーヴァー『頼むから静かにしてくれ』の冒頭の第1話「でぶ」。
あらすじ的に語ると、シンプルだ。
主人公の「私」ウエイトレスが、レストランで、「デブな客」に給仕をして料理を運ぶ、その話を友人の女友達に語る。
これだけ語ると、
「はあ? どこが面白いの?」ですよね。
ありふれた日常を切り取り、深さを与える短編がカーヴァーの真骨頂で、この、字数計算したら、たった400字詰め17,1枚の作品は、
なのに読後感は不思議で、虚飾を排した文体もシンプルな美しさがある。
ただ問題はシンプルすぎて、よくわからない。
なんとなくすごそうだけど、何なんだ、と。
だから、読み返さずにはいられない。
昔、若い時の初めて読んだ感想はこうだったでしょうか。
以下、ネタバレ(といっても、僕の解釈なので、正解かどうかはわからないですから、いいですよね)になります。
肝は、終盤の、恋人との行動で、主人公が自分のことを「私は突然自分がでぶになったように感じる」の箇所ですね。
3-7年前に読んだときの〈僕自身〉も、「ここが、物語学でいうところの「異化」(日常の非日常化的な描き方。生物が非生物に変化したり、逆に単なるモノが生物化するレトリック)している」とは感じたけれど、
そこまで止まりだった。(本に書き込んだメモがありましたから)
でも、今の令和7年の〈僕〉には、もう一歩踏み込めました。
ウェイトレスの彼女「私」が自分を「でぶ」と感じるのは、比喩的なアナロジーが込められていると感じとれました。
つまり、一方的に給仕され、太ってゆく「自分の未来を制御できない者」や「受動的に」欲望を満たす「者」だと感じた、と解釈できたわけです。
(微細であっても、ふと比喩を感じるのは、詩人の現代詩的な感性の働き)
さらに、もう1段階、令和7年の〈僕〉は踏み込めます。
そう気づいた「私」と気づかない周りの人物との落差を、カーヴァーは描きたかったんだ、と。
(これ、細谷功的な「抽象度感覚」スキルで、読み取れました。)
主人公の歩いた軌跡を描く、というマンガ原作スキルも使うと、この作品構造と構成が知識としてだけなく、今回はきっちりと感覚的にも「見える化」体感できました。
カーヴァーの文体は、というか、村上春樹の文体の、外形描写力も、すごく感じました。
対して、自分が「心象風景」と言えば聞こえがいいが、心理描写をすればするほど、読み手へそれが「強く」伝わると思い込んでいた、間違いを強く感じます。
自転車の乗れて入れた小学生が、二度と「乗れない自分」へ戻れないように、「見える化」すると、
もう元へは戻れません。
だって、「見える」ですから。
ちょうど、詩をどんどん書き出せてしまうと、詩を書けなかった過去の自分へ、もう戻れないのと同じでしょうか。
うーん、実際の小説で、書いて確認しよう。
あっ、今日は午後、詩の会合で、その後、親睦会です。
その前に、三宮のブックオフへ行くし、お昼を食べるから、あまり書く暇がない。