最近、小説をめぐる苦しい努力ばかり書いていましたが、今日は詩をめぐる話。
愚痴のようにも見える、僕の学び人生での関わった人についての、現状把握を書きます。
つまらなければ、スルーしてください。
詩を、現状維持を求めて、肯定してもらいたくて詩を書いている人も多いんだね。
最近、色々あって、そう深く感じ入りました。
変えること、上昇することを求める僕とは違う。
何より、詩は、たとえ自分ファーストで描き始めても、上に上がれば上がるほど、他者に向かってどう描くかの、
読み手ファーストの要素を入れないと行けないから。
現状維持だったり、自己のプライド云々じゃたどり着けない気がします。
それって、勿体無い、です。
前に、詩のオンライン講座で、「批評は嫌いだ」と断言して、怒っていた(僕より年上の)人について紹介しました。
僕は(他の人も?)ドン引きしてしまいましたが、きっと、あの人も(詩の講座の先生に、自作を褒めてもらって)現状維持を肯定したかったのでしょうか。
人は、他人も自分と同じであってほしいもの、なのでしょうか。
変わるって、怖いものですから。
変える意思を持たない人は変わらない。
きっと、他人と、自分の作品が比較されることが怖いんだよね。
(そもそも、現代詩の世界が急速に縮小しているのは、自分ファーストな、書き手だけ観点を優先するばかりで、読み手を無視したからなのに。
そんな小さな世界で、切磋琢磨しないのは、どうなの? と詩専属じゃない自分は思ってしまいます。
素人の、その人たちはもちろん、現状に危機感がないと感じる詩界の、偉い人たちが不思議です)
大切なのは、過去の自分より前へ進もうとしていること、その目的地を目指すことなんだけど。
僕にとっての現状は、通過点。
ただし、通過できるかどうかは、神のみぞ知るで、そこから前へ進めない終着点になる場合もある、と想定しています。
(まだまだ、そのレベルではない不十分・不完全な今のはず)
変わる意思を持たない人たちは、他者比較の谷間に落ちているだろうね。
優れた他人・才能と出会ったら、恐れ、避けるのではなく、「学ぶチャンス」であるのに、勿体無い。
年齢を言い訳にしたり、さまざまなことを言い訳に、学ばない。
不思議だ。
怖いんだろうね。
学んでも変わらないかもしれないからだろうか?
16年間大学通信で学び、放送大学の学部で再開した、この5年間プラスすると、21年間の学び継続中な、僕の「学習歴」。
その前に、絵を描いたり、バドミントン教室やら、空手やらの格闘技などを入れると、おそらく働き出した22歳の頃から、ずっと「学んでいる僕」。
自作PCの組み立ては、本を片手にネットを見ての自己流学びでしたが。
「学ばない」人。
「学びたくない」人。
そういう人もいるんだ、ということを、僕もしっかりと記憶しておかないといけない。
でも、たぶん、僕には無理だろうな。
つい、教えて、学んでほしくなる病は、筋金入りだから。
これはこれで、現状から変われない人間。笑
ともあれ、そんな人たちから逆ギレされたり、恨まれたりして、残り少ない、僕の貴重な時間を奪われたくないから、
発見しても近づきたくないよ。
基本、25歳以上なら、自己責任ですからね。
努力しなくて、傷つかなくて、上手くなりたい。
そんな美味しい話、ないんですよ、世の中には。
天は自ら助くる者のみ、(ときどき)助けてくれる(場合も、ごくごくたまにある)。
それが、シンクロニシティだと思っています。
今、ここでいう、ちょっと、スピリチュアルが入る第8段階かな?
今日も、休みですが、また、どう小説を書くか、悩む、苦しい一日になります。
昨日は、新しい勤め先へ行っての打ち合わせで、cubで延々と片道1時間近く走って疲れました。
(奴隷働きだから、向こうに呼びつけられてるのに、旅費も出ない。
電車で行くと、往復1,000円以上かかります)
向こうの担当者に、旧知の、すごく親しかった人が登場してビックリでした。
そこに勤めていることは知ってましたが、次年度まさかの担当チーフなのは予想外でした。笑
そういえば、ひと月半前ぐらいに、図書館へ行く時だかに偶然、道で会って挨拶を交わしました。
そこへ来年度から非常勤へ行くのが決定前だったのですが、あれはあれで、シンクロニシティだったのですね。