今日は、午前いっぱい、仕事。
2年続いた、この勤務先へも行くのは、今日が最後になります。
もう一箇所が、常勤の正規職員の時からのひきつづきなので、
非常勤で勤めたここが最初の職場になります。
坂道が多くて、大変でしたが、職員の方々とも楽しく過ごさせていただきました。
感謝したいです。
非常勤になってからは、まさに「縁」というものを強く意識するようになりました。
周りの人々はもちろん、仕事内容についても。
仕事内容は基本、あてがわれたものをやるだけなんですが、正規職員の場合、内容についての取捨選択は、僕の自由意思でしたが、
今は全然、違うので、(「どれにしますか」と若い職員の方からアドバイスで、選択を任せてもらう場合もありましたが)ほんと「縁」、巡り合わせなんですよ。
たぶん、僕はこの仕事が好きなので、年金をもらうときになっても、働くと思います。
(いや、今の石破政権のように、悪い政府が続くので、団塊の世代のように、年金では生活できず、90歳ぐらいまで働かされると、僕は予想していますが)
さて、昨日のブログの続きです。
クリエイター系のSNSの、「NOTE」の方にも書いたのですが、あれから小説創作と自分と距離感について、深く考え内省しました。
「距離感?」
それは平たくいえば、どう小説へ向き合っているか、ですね。
NOTEには、色々書いた後に、こんな末尾を書きました。
「気づかないうちに、自分も現代的な令和的な風潮、軽薄短小なコスパ・タイパ意識に囚われている。
タイパは合理的で、それ自体は間違いでないけれどね。
すぐ結果を求めすぎている。
そこから大谷選手は生まれない。
大谷選手は二刀流でスキルとしてはもちろん器用だけど、生き方としては限りなく大きなスケールで不器用だ。
ある意味、そこに昭和的な愚直な生き方がある。
今、僕に必要なのは生き方としての不器用さで、スキルとしては二刀流の器用さかな。
どうせ失敗するなら、大谷選手を目指して失敗したい」
ちょっと、カッコつけすぎですが、
それからさらに、内省を続けました。
昨日の結論としての、今までの自分の【設定ファースト】や【展開ファースト】になっていたスタンスを改めて、
【舞台と人物関係ファースト】で当たる、その一瞬一瞬、その1行一段落ごとを、人物や舞台環境と〈対話〉するスタンスを確立させようと決意しました。
それだけでなく、書く小説の「なんとなくの全体像」が掴めました。
像とは「どういう雰囲気で、どういうモチーフで、どういう言葉の置き方をするか」、です。
具体的にじゃないです。
でも、モチーフに関するメモはいくつかできました。
現代詩を書くときのような、モヤモヤのああのアイデアの塊感を掴めたんですね。
前に、100枚以上の小説は、どう書き始めたらいいかスタートがわからず、どう展開して描くかわからず、どう終わらせるかもわからない三重苦だと書きましたが、
それでいうと、それぞれ少しずつ、モヤモヤの素ができたんです。
これが、実は僕が現代詩を書く際と同じ感覚で、同じ構造なんです。
してみると、気づきました。
今まで、僕は100-150枚以上の小説も、短編やエンタメ系小説と同じように「スタート・展開・終わり」が分かって描くべきだと信じていたんですね。
でも、実際に僕が書きたいのは、そうじゃない書き方の小説だった、ということです。
つまり、〈書くべきことが分かっていない予想値外れの、現代詩のような小説〉を、本当は僕は書きたかったんですね。
だから、散々、いろいろと「分かったこと」へ向けて書こうとして玉砕するは、それじゃない感に苦しむはしていたんだと気づきました。
表現としては、ゲシュタルト的な、書いてないことを目指して書こうとしながら、はっきりと分かったことを目指すテーマに書こうとすることなんて、矛盾も甚しかった。
ともあれ、スタートも、なんとなく案が幾つも浮かんできました。
一昨日まで、あれだけ、何を書いていいのか、さっぱりだったのが嘘みたいです。
そうそう、こんな風に現代詩のように、散文詩を書くように、断片から書けばいいんですよね。
小説は書くあるべき。
そんな枠なんて、糞食らえ、です。