詩の講座やグループ教室のターゲットと、文学との兼ね合いについて | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

某女子大の講座へ行くと、ほぼ僕より上か同年輩の参加受講者との、詩に対するギャップを感じてしまう。

それは孤独感といってもいい。

 

僕は常に詩(文学)の枠を疑いながら、新しさやオリジナリティを求めながら書く。

こう書くと聞こえがいいが、ハズレやわかりにくい実験作になる。

当然、「何これ?」の反応は想定内だ。

それでも、書きたい、僕との差が生まれる。

 

だから、そこにいると、周りに合わせて、従来の詩の作り方へ、誰もが認める創作手法へ、つい無難さに流れそうになる時もある。

そうすると、何も変わらない。

 

失敗しないで、成功は生まれないと信じていくしかない。

 

同様に、今度参加する、少人数の若い人たちの、詩のグループに行っても、たぶんギャップを感じながら座っているだろうと思う。

自分らしさの追求が(ご本人たちが意図してなくても)既存の詩界との差止まり限定だと、狭いと感じるからね。

 

ここも今回が最後にしようと考えている。

 

僕が詩人クラブ新人賞やH氏賞の候補になったら、そこの知り得た情報を伝えるつもりでいるけれど、果たして、そうできるかどうか。

そもそも、その資格があるかどうかになるからね。

詩人クラブ新人賞の候補にもなれなかったから、現状、言う資格はない、と感じている。

 

向坂さんやマーサさんの教室に参加して感じる居心地の良さは、きっと僕と同じ方向に、

(小説も含んで、たまたま、そこでは詩限定でやっていることへ)向いていること、つまり、ターゲットが文学全体と大きいからだと思う。

 

さて、今日は仕事が臨時休業。(次の金曜日も、月曜日もだ)

ちゃんと創作しないといけない。

 

昨日は、小説教室の今季の最終日で、帰宅は11時だった。

まだフジテレビの会見中だった。

 

うーん、ボロボロのフジテレビのように、先週のトレーニングで痛めた、僕の左肩や腕の痛みはまだ取れない。

昨日は大阪で、重いリュックサックを背負って歩き回っていると、辛かったから、今日、いく予定のジムもやめておこうか。

マシンやダンベルをあげられそうにない。

 

素手なら走るのはかろうじてできるから、また家の周りをランニングかな。