確かに変わった潮目。小説との距離感 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

ここ、2・3日、このブログでも書いていますが、確かに潮目が変わったようで、立て続けに、小説に関するさまざまな発見があります。

 

昨日も、小説との距離感が、という話を書きましたが、

日程変更した、NHK文化センターのオンライン講座を期限ギリギリになって、石田 祥「物語を書く時の言葉の選び方・使い方」を見逃し配信で観た。

正直、お金を払ったからの半ば義務感で観たんだけど、予想外に良かった。

いた、目から鱗が落ちた。

 

 

 

 

石田さんの言う、純文学、エンタメ文学、ライトノベルといったジャンル分けはよくわかっているし、もちろん、その文体の差もわかっていたつもりだった。

が、ほんと「つもり」だったんだと愕然とした。

 

エンタメと、ライトノベルの間に、「ライト文芸」のジャンル立てをすることで、石田さんがいうように、

読み手ニーズの大切さ、出版社が求める感覚に思い至る。

僕は、読み手ファーストと言いながら、それを無視してというか、計算式に入れてなかった。

知識としてわかっているだけで、神聖視してるから不純な気がして避けていた。

 

そうじゃない。

その文体の違いに、読み手のニーズを加えることこそ、真の読み手ファーストなんだ。

 

やはりまだまだ、読み手を大切にしてなかったんだ。

詩と同じ、自己表現の延長上で留まって、自分ファーストなままだったんだ。

 

ほんと目から鱗が落ちた。

 

そして、此の神聖視や、文学意識も小説との距離感なんだ、と思う。

詩の場合、無意識に、その賞ごとに、近代詩的抒情詩か。現代詩的な象徴詩か、作品ごとに測っていたし、認識し、コントロールも行なってしまっていた。

 

なのに、小説では、雑すぎるジャンル意識と文体意識のままだった。

そのことに、ほんとハッとした。

 

うーん、場所・ロケーションも含めて、再構築しないといけない。