実は、僕は大のSFファンでした。
昔、よく読んでいた雑誌『SFマガジン』は隔月刊になって、もう7・8年になりますかね。
大昔には平井和正さんの作品がよく載っていた、廃刊された『SFアドベンチャー』なんて雑誌もありましたよね。
『SFマガジン』はたまに立ち読みをする程度で、もう図書館でも借りなくなって、何十年も経ちます。
美術系の雑誌をよく読んで、次に児童文学系や文芸誌へ興味が移ってしまったので。
それでも、たまにSF作品は文庫で読みますし、ファンタジー系はコンスタントに読んでいましたっけね。
さて、雑誌『BRUTUS』の、これが最新号かな。
7/15号で、特集「夏は、SF」で、SF小説やドラマ他について、声優&SF作家(失礼なことに存じ上げませんでした。お若くてお綺麗な方だ)池澤春奈さんや、
SF書評家の大森望さんたちが、冒頭ページで鼎談されています。
これがすごく面白い。
筒井康隆さんの、あの有名な宣言「SFの浸透と拡散」を皮切りに、今日までの時代との絡みで、SFの歴史と現在を語っている。
SFの歴史は、僕にはある程度、わかっているけれど、現代社会との関わりや時代的変遷とのコラボは、言われてみれば納得だけど、
当たり前すぎて、気づかなかった知見がいっぱい、すごく刺激的でした。
たぶん、僕の中のオタク性は、SFと密接に関わっていて、例えば、明石市文芸祭で市長賞を取った詩作品「白いマスクの仮面ライダーたち」にも、それは濃厚に反映されています。
もちろん、他の詩はもちろん、小説の世界観や創り方にも、その背景に濃密だと思います。
そもそも、インターネットの発達して、iPhoneなど情報端末で世界へ繋がる現代は、1970年代からしたら、
ある意味、現代は手塚治虫が夢想した世界へ非常に近づいてもいるし、ドラえもん的なアイテムを一部駆使したりもする、
けれども明るい理想世界じゃなくて、サイバーパンクな世界なディストピアに近い、情報支配な世界線なんですよね。
(今、実感としてはっきり認知、できました。
この世界観で詩ができます。笑)
きっと『SFマガジン』を読む時は、もっと未来を見つめているので、現在や歴史との差異や整合性を意識できないんだと思います。
そうか。
歳とった詩人の方々は真面目だから、SFなんて読まなかったし、
若い詩を作る人は、SFをよく知らないだろうし、盲点な位置に僕は立っているんだ。
不思議です。
僕にとっての自明な、この「差異」が、盲点だなんて。
まあ、アニメーションやマンガにも詳しくて、Windows系Dos/vパソコンを自作する第1世代オタクで、
デッサンからのアナログな絵を描き、デジタル系のアートアニメーションから、クレイア・アニメーションまでをやった経験があり、
詩を書き、児童文学にも詳しく、純文学が好きだ。
古美術、仏像、バイクもわかります。
ああ、確かに、変な奴だ。
ふふっ。
あと、格闘技オタクだった時もあって、糸東流空手初段、大東流合気柔術初級(笑、段じゃない)、フルコンタクト系の芦原空手も少々、
かつバドミントン・コーチング技術はそれなりに。
あっ、手品を習った時期も。笑
うん、筋金色の変わり者だ。
40年間の「独り学ビスト歴」は伊達じゃない。
(「νガンダムは伊達じゃない」ように!? 笑)
僕にとっての常識が、実は異常な、非日常なんだね。
そもそも、詩を書くことは異常な行為。
そう考えると、僕は自分の全体像を全然、作品に反映していない。
自分を、それぞれのジャンルの常識で封印しているな。
小説はもちろん第2詩集にも、その一部でも反映させたら、書くこといくらでもあるんだよな。
【追記】
こだわって、一つを追求するのが、自分の利点だと思うのですが、逆に、こだわりから抜け出られないのが、自分の欠点でもあります。
ここ16年間、3月までは児童文学にこだわって、創作してきました。
でも、もう、いい意味でも諦めたのです。
3月に出した、講談社児童文学新人賞も1次選考も突破できずに終わりましたから。
現時点での、児童文学での「僕のこだわり」は失敗した、と認めざるを得ません。
きっと、このこだわりを外すことができたら、また違う展開も開ける予感がありますが、
そのためには一度、離れないといけません。
(まだ、ニッサン童話と絵本などの小品は、書き続けますが)
何度も宣言しているように、今年から2年間は、純文学小説へ全力振りです。
書けるからこそ、現代詩も書くのは片手間にして。
しかし、そうしてこだわると、純文学への憧れから、また、僕はこだわりの狭い領域表現になりがちだと思うので、
今日、書いたように、広い「領域展開」で己が呪術を展開しようと決意しています。笑