昨日も無事、乗り切り | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日の、阪急の一部運休、遅延アクシデントを経つつ、仕事のまとめ作業を終え、

そのまま京都山科の四十九日法要を無事、終えました。

帰宅して、17時だったけど、ぐったり。

少し休んで、夜、ここ5年ほど出している、中津川市主催の島崎藤村記念文芸祭へ出す、落選作の改稿作業をしました。

現代詩と児童文学、それぞれを改稿しました。

 

で、詩はいつでも書けるので、ともかく、児童文学、つまり散文・小説系を書いたことで、少し元気を取り戻しました。

「何を?」って、

深大寺恋物語のたかが10枚を、この6月ひと月間、完成させられずに、挫折したままだったんですね。

もちろん、仕事は忙しかったけど、充分、時間はあったので、単なるヘタレに成り下がってました。

詩の創作に逃げる時間はあったのでね。

 

この現場段階での、書けないよ意識。

これに、つい囚われてしまうと、僕の場合、日常生活の中で混濁してしまう。

自分が非力だから、他力で学ぶ姿勢が全くなくなって、ひたすら自分は才能がなくダメだ、になっちゃう。笑

よく言って、自分が忌み嫌う、「創作才能至上主義」に陥ってしまうんでうよ。

 

この才能主義を嫌うのは、それが僕自身の中に厳然と根付いて、自力では拭えないからですね。

(もちろん、創作の最後は才能だと思っています。

 でも、その最後に行くまでは、努力と積み重ね、学びが入る余地がある、と信じています。)

 

つと思ったのですが、

意識には、この現場レベルの書く書けない意識と、高い視点から、とにかく出来不出来に関わらず、終えてしまう仕事感覚かつ管理・計画の意識の、二種類があるみたいに思います。

 

仕事の場合、納期は決まっているし、ダメだと放り出せないので、出来不出来に関わらずベストを尽くして、

後は野となれ山となれ、不出来な具合は謝るしかない、でやってますよね。

とにかく、忙しい仕事の場合は。

どんな天才でも、物理的な時間は限られているし、次々にやってくるので、作業化しないといけないから。

 

 

 

 

さっきね、始まった新番組アニメ「ダンジョンの中の人」を見て思ったんです。

 

昨今の異世界モノって、さまざまな発想があって、「そう来たか」と感心させられる。

けど、これって、現代史の技法で言えば、ズラしであり、「見立て」だよねって。

 

発想やルール自体を、他の無関係な事象とのズラしや見立て変換で、その後、〈どうなるどうなるエンジン〉で広げている感がある。

これなら、僕にも書けそう、できそうに思う。

考えているだけでも、楽しいだろうしさ。

 

でも、ラノベは一攫千金な分、使い捨てられるからね。普通の小説を書いた後でだな、と上から目線でも思ってしまう。

 

実は、この上から目線意識もすごく大切だと思うんです。

この意識は管理・計画者意識で、私情を交えず、高次元から観ている客観的目線なんですよ。

つい、できないことに、自分のダメさ加減に、「病んで」しまうんですが、それは意味のないこと。

地力が足りなければ、学んで、補えばいい。

経験から言って、下手であればあるだけ、伸び代無限大ですから。笑

 

深大寺恋物語は、この7/13の「新しい詩の声」授賞式で東京に行く際、調布市の現場へ行って、それから最終完成する予定でいますが、

とりあえず草案だけは、もう捨て原稿として、今日中に完成させたいです。