昨日の、阪急の一部運休、遅延アクシデントを経つつ、仕事のまとめ作業を終え、
そのまま京都山科の四十九日法要を無事、終えました。
帰宅して、17時だったけど、ぐったり。
少し休んで、夜、ここ5年ほど出している、中津川市主催の島崎藤村記念文芸祭へ出す、落選作の改稿作業をしました。
現代詩と児童文学、それぞれを改稿しました。
で、詩はいつでも書けるので、ともかく、児童文学、つまり散文・小説系を書いたことで、少し元気を取り戻しました。
「何を?」って、
深大寺恋物語のたかが10枚を、この6月ひと月間、完成させられずに、挫折したままだったんですね。
もちろん、仕事は忙しかったけど、充分、時間はあったので、単なるヘタレに成り下がってました。
詩の創作に逃げる時間はあったのでね。
この現場段階での、書けないよ意識。
これに、つい囚われてしまうと、僕の場合、日常生活の中で混濁してしまう。
自分が非力だから、他力で学ぶ姿勢が全くなくなって、ひたすら自分は才能がなくダメだ、になっちゃう。笑
よく言って、自分が忌み嫌う、「創作才能至上主義」に陥ってしまうんでうよ。
この才能主義を嫌うのは、それが僕自身の中に厳然と根付いて、自力では拭えないからですね。
(もちろん、創作の最後は才能だと思っています。
でも、その最後に行くまでは、努力と積み重ね、学びが入る余地がある、と信じています。)
つと思ったのですが、
意識には、この現場レベルの書く書けない意識と、高い視点から、とにかく出来不出来に関わらず、終えてしまう仕事感覚かつ管理・計画の意識の、二種類があるみたいに思います。
仕事の場合、納期は決まっているし、ダメだと放り出せないので、出来不出来に関わらずベストを尽くして、
後は野となれ山となれ、不出来な具合は謝るしかない、でやってますよね。
とにかく、忙しい仕事の場合は。
どんな天才でも、物理的な時間は限られているし、次々にやってくるので、作業化しないといけないから。
さっきね、始まった新番組アニメ「ダンジョンの中の人」を見て思ったんです。
昨今の異世界モノって、さまざまな発想があって、「そう来たか」と感心させられる。
けど、これって、現代史の技法で言えば、ズラしであり、「見立て」だよねって。
発想やルール自体を、他の無関係な事象とのズラしや見立て変換で、その後、〈どうなるどうなるエンジン〉で広げている感がある。
これなら、僕にも書けそう、できそうに思う。
考えているだけでも、楽しいだろうしさ。
でも、ラノベは一攫千金な分、使い捨てられるからね。普通の小説を書いた後でだな、と上から目線でも思ってしまう。
実は、この上から目線意識もすごく大切だと思うんです。
この意識は管理・計画者意識で、私情を交えず、高次元から観ている客観的目線なんですよ。
つい、できないことに、自分のダメさ加減に、「病んで」しまうんですが、それは意味のないこと。
地力が足りなければ、学んで、補えばいい。
経験から言って、下手であればあるだけ、伸び代無限大ですから。笑
深大寺恋物語は、この7/13の「新しい詩の声」授賞式で東京に行く際、調布市の現場へ行って、それから最終完成する予定でいますが、
とりあえず草案だけは、もう捨て原稿として、今日中に完成させたいです。