結局、深大寺恋物語むけの原稿を、小説教室の今月分へ送るのは取りやめました。
というか、まだ書き始めてもないいので、送れませんでした。笑
だから、別の作品を提出文として送りました。
でも、深大寺原稿10枚の創作自体は継続中です。
というか、がっぷりと四つに組んで、悪戦苦闘中です。
ただ、どうしても、例の悪癖、【ストーリー展開の呪縛】に餅づいて、作品を組み立てようとしがちです。
自分でもそれがわかるので、そちらのルートへ構想は練らずに、内田百閒ルートへ踏み出しています。
〈内田百閒ルート〉って?
内田百閒の作品って、不思議な味わいの作品が多いんです。
ストーリー展開はあるような、無いような、ふっといきなり終わる感じがあります。
もちろん、これで万人に対して正鵠を射た、正しい表現だと思うのですが、
僕風の言い方に改めると、小説の合体獣的な「鵺(ぬえ)的側面で終わることを意味します。
つまり、読み手任せで終わる多元的解釈が可能な終わり方が多いんですね。
これ自体は、前から充分、理解していたことですし、比較的どなたも同意してくれ、かつ、同様の趣旨の指摘は研究書でもあったように記憶しています。
が、今回、特に言いたいのは、その入り方も「鵺的」で捉え難い点です。
いわば、短編なので、他の作家の作品と同様に、ある状況下から作品舞台は始まるんですが、特に、人物が謎様相に富んだ状況下にあるんですよね。
これ、あえて、「謎様相」と書きましたが、幻想的と言った方がわかりやすいと思います。
しかし、幻想的、と書くと、作品の雰囲気だけを指し示しているのですが、「謎様相」とわざわざ記したのは、主人公がその周りの環境様相と戦っているからです。
環境が主で、強い影響力があって、人物の意思は「謎めいた」環境からの圧に対して、従属的な立場で影響されまくり、受動的な側に立っています。
わかりやすく言えば、「危機的な状況」で一方的に防戦しまくっているんですね。
うーん、うまく伝わっているか、自信がない。
この作品「冥途」と「件」なんて、その典型で、皆、人物は置かれた環境に振り回されています。
こう書いていると、内田百閒の読み直しって、3月の小川洋子さんの講演会からのつながりからの飛躍で、たまたま内田百閒文学賞へ出すからそのオマージュにしようと読み始めた、つもりでした。
つまり、サブ・ミッションだと思っていたんですけど、実はメインの習熟すべきステップだったんだ、と気づきました。
恐るべし、シンクロニシティの渦、と思います。
とにかく、こうした渦に巻き込まれながら、流されてゆくところで、また渦を見つけ、そこから転移しているような冒険の旅をしている、
今の僕自身の、気分はそうです。
なんだか、僕自身が小説や物語の主人公のような、RPGをしているような感じなんですよ。
僕ではなく、こうした設定をした存在が凄いな、と思います。
とにかく、渦を見つけたら、素直に巻き込まれ、努力すること。