シンクロニシティって、ほんと不思議。瀬崎圭二先生の講義を受けて | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

シンクロニシティの渦に気づけるようになると、

その接近や発生(?)が分かるようになって、

ますます不思議さが増してしまう。

 

僕自身は、典型的な日本人で、熱心な宗教的な信仰は持っていません。

困った時の、神頼み、程度です。

キリスト教にはその教義に惹かれますが、その蛮行の歴史を思うと、綺麗事に感じます。

それに、仏教徒的な転生輪廻の感覚や罰があたる感覚はもう染み付いていますから。

 

ここ2週間ほど、シンクロニシティの渦の中にいるな、と、

たびたび、僕はここに書いて来ました。

実際、そう信じて、感じています。

 

だからといって、別に宗教的になった訳でも、スピリチュアル世界に入り込んだ訳でもなく、

汚れた醜い欲望まみれの俗世の人間のままです。笑

 

さて、昨日、書いたことの繰り返しになるけど、放送大学のスクーリング「教科書掲載の短編小説」を受講してわかったことがあります。

 

宇治拾遺物語から「羅生門」を小説化した芥川の手際も、プロット因果に則っていたし

漱石の「夢十夜」のゲシュタルト感覚での捉え直しの、永遠性の感覚といい、

今回の放送大学スクーリング「教科書掲載の短編小説」の講座での講義は、まるで僕のための授業でした。

もちろん、先生は「プロット因果」や「ゲシュタルト感覚」という用語は一切、使われておりません。

勝手に僕が脳内補完して、解釈しただけです。

同じ講義を受けても、全然違う知見の人は多数でしょう。

 

というのも、僕は今、自分のゲシュタルト空間から、新しく得た知見を比較検討して、融合させていくモードを体得してしまっています。

それこそ、小説を書く際に、そこから地の文やら、主人公の独白にすぐ転換できるような。

 

もちろん、いつもそんなモードの入れるわけではなく、こうしたすごく刺激的な知見に出会うと活性化されるんだ、と今回、発見できました。

こうした、自分自身への発見も収穫の一つ。

 

内容といい、自分の中のものといい、小説を書くヒントといい、ここまで一挙に、知の再構築ができたのは大収穫だった。

ほんと久しぶりです。

単発では、中村航さんの教室や、先日の小川洋子さんの講演会などがありましたが、

今回は慶應通信のスクーリング以来の再構築とも言えるでしょう。

 

そこへ、中村航さんの小説教室の衝撃と、先日の小川洋子さんの講演会、苫米地英人さんなどなどをミックスすると、

見事なほど、小説の創作感覚やプロセスが感覚的にも、また、今までの創作体験や協議との整合性など、原理原則を再構成する際の知見的にも、

すごく実証的でありつつも、全方位から再構築することができた、と思います。

 

これだから、放送大学は辞められない、です。

この、同志社大学の瀬崎圭二先生の講義は、先生曰く、第2学期の11月に続きがあるそうで、ぜひ受講したいと思います。

それこそ、他の創作教室の受講を取りやめたり、欠席しても受講する価値がある至宝のものだ、と感じていますから。

 

改めて、ここに、瀬崎圭二先生に感謝の気持ちを捧げたい、です。

きっと、先生からの啓示、ヒントを元に、素晴らしい作品をこれから書ける、そう信じています。

 

再構築して得たものを、もう少し続けると、

登場人物のコミュニティを、それぞれのゲシュタルト空間に閉じ込めて、小説空間の展開上で交流させる。

 

我々は、それを小説だの、物語だのと呼んでいるだけ。

そのゲシュタルト空間が哲学的に深ければ深いほど、そこから流れ出る作品は、純文学になる気がするのです。

(浅いとライトノベル(?)になるのかな。)

 

一番の間違いは、人物の設定を、身上書というA4程度で設定のようなもので、

すべて済んだ気分になってしまうこと。

そうすると、ゲシュタルト空間へほぼ入らないで勘違いしてしまうから、とか。

 

これで、僕の今の、嘘偽りのない認知したことを書いてるんですが、

何のことか、分かりませんよね。笑

 

でも、3月中頃までの、小説について、どう書けばいいか悩み抜いていたのが嘘のよう。

小説観が揺らいでいて、ひどく混沌としていた1-3月。

児童文学を書くのに四苦八苦していた、あの悩みの時期とはうって変わって、まるで違うのです。

こんなに新しい有益な知見。答えをもらい続け、手に入れ続けていること、これだけ立て続けに小説理解が進んだこと、というのは、

諦めないで、頑張った甲斐があった、と思います。

 

何より今、確かにシンクロニシティの渦が来ているんだろう、と感じています。

 

これもすべて、遠い昔、

「表現したい」と言う自分の素朴な願いを否定せず、

そいつを採用して、

「できるよ、信じて(許して)あげようよ、(才能がないと喚く)自分を」

と、ずっとなだめて、数十年も自分を応援してきたから、今があるんだよね。

今の自分は。

シンクロニシティの渦自体は、僕たちの思惑とは別にずっと、ずっと起きているんだから。

 

その前の、デッサン、さらに前の、バドミントン、さらに、空手か。

長い長い、恐ろしく長い階段を、自分は登ってきたんだ、と過ぎてきた人生を振り返ってみて、

しみじみと思います。

 

まだ、小説系では、どこにも入賞できていないどころか、作品を描いてもいないのに。

まるでジョジョの奇妙な冒険の主人公たちのように、予言してしまいそうなんです。

成功譚はまだ始まってすらいないのに。

 

でも、今、詩を書く時と同じ感覚。

ゲシュタルト空間から、ポエジーを引き出すのと同じルート(厳密に言うと、まるで違うのですが、引き出す行為的には同じ、です)を、

見つけられたかな、そう思える自信を持てています。

 

あとは、作品化して書くだけ。

もちろん、それはそれでまた困難で、決して楽な作業や工程じゃない。

でも、詩での体験があるから、そうしたゲシュタルト空間の顕現は努力すれば、なんとかなるさ、と思っています。

 

頑張ります。