このブログを読まれた方から、過去記事’23年6/17の内容について、ご質問いただいて、
その、芥川賞作家である吉田修一さんの『キャンセルされた街の案内』の文庫本が、探しても全然見つからない。
何せ、部屋中、本の積読だらけになっているからなあ。(反省)
しかも、この作業を相方に見つかるといけない。
「ほら、やっぱり。いらないものを早く、片付けなさい。捨てなさい」という命令がくだるに決まっているから。
(いや、今は要らなくても、すぐ必要になるか予想がつかないんだよ、と言っても、
無駄ですから。
それに彼女のいうことの方が正しいんですよ。常識的には)
だから早朝か、相方が出勤した合間で、やらないといけない秘密ミッション。(おいおい)
で、家探ししていると、
「おおっ。これは」
「ああ、こんなところに」
「そういえば、読みかけだった」
「読まないといけないのに、読んでなかったよな」
「もう一度、読むと、どうなるだろう」
で、色々と別の本が見つかりました。
こんな感じで。
うーん、『キャンセルされた街の案内』を発掘するのは、現時点では不可能な感じ。
これは必殺技〈ブックオフで2冊目購入〉か、電子書籍購入作戦kのどちらかだな。(おいおい)
きっと再購入した、次の日ぐらいに、別件で探すと「あれ、こんなところにあるじゃんか」と出てくるんですよね。
これら、ほぼ、去年か一昨年だかに読み直す、つもりで置きっぱなしになってたんですね。
ここ数年、児童文学と現代詩の創作にかまけて、小説は分析読みするばかり、研究するばかりだったから、
間接的に、児童文学の物語に変形した形でしか反映させずに、片手間でしか書いてこなかったんですよね。
今、ほんと目が覚めたような感覚です。
だから、3月初めまで思ってた、落選の225枚の長編児童文学賞の改稿もやめようと思います。
短編だから、やろうかと思っていた「角野栄子 あたらしい童話大賞」と、「森林のまち童話大賞」も、落選作の改稿程度か、すっぱりと出さない方向へしようかと思いかけています。
というのも、児童文学と小説は同じ散文ストーリー展開として共通する部分もあるのですが、全然違います。
特に、僕の場合、児童文学へ思い入れが強すぎて、ファンタジー系に凝り固まっているようでダメなんですよね。
一方で、自分の中に、小説の場合の、純文学関係(=現代詩的な)の無茶な表現も描きたい衝動がしっかりとあるので、どっちつかずの中途半端になっています。
それもあって、児童文学から一度、すっぱりと撤退しなければいけない必要性をすごく感じているのです。
「向いていない」のだから、現状、未練を切りましょう。
「ニッサン 童話と絵本のグランプリ」10枚だけは、やることにして。
で、そう思っているだけでもダメなので、昨日は数十年ぶりに星新一『ボッコちゃん』のショートショートをいくつか読み返しました。
もちろん、いつもの分析読みを仕掛けてみた訳です。
星新一に分析読みするのは、初めてだったんですが、やってみるとビックリ。
(長くなったので、分析メモからそのままコピペします)
「たまたま買っていた『ボッコちゃん』を研究してみた。
表題作「ボッコちゃん」は、田丸雅智的な、「あっ」と思わせるアイデアものとは、全然違った。
これは予想外だった。
随所に、それこそ形式段落の、段落ごとに最低一つは、読み手をニヤリとさせる人間観や世界観が散りばめられている。
同時にそれらがプロット因果的な働きを兼ねているから、凄く納得させられる。
つまり、人間にはこういう心理ってあるよね、と常識と気まぐれな皮肉の提示。
だから、薄っぺらに感じさせないのか。
また、状況を作り出すのが上手く、その状況から、読み手の「どうなるどうなる」が、それこそゲシュタルト的に支配・管理されて、ストーリーに自然とつながって行く感じがある。
もしかして、ここで、しっかりと原理や展開への繋ぎ方を研究したら、あの「4枚小説」の先生の言葉通り、凄い訓練になる気がする。
また、ゲシュタルト分析したら、詩における仮構条件的な、画期的な、何がしかの法則も見つけられるかも知れない。
(こんなの、いくら村田喜代子の「縦横無尽の文章レッスン」を読み直しても、小説の神髄はわからないな。)」
最後のかっこ内の文は、この前、小川洋子さん文庫本の解説で、たまたま敬愛する村田喜代子さんを見たから、前に買っていた文章作法的な本2冊を探したんですよ。
で、やはり積読でどこに埋もれているかわからず。笑
買うのは憚られるので、図書館で借りてきたわけです。
昔読んだ時は、すごく目から鱗を落とされたのに、今、読むと全然で。(ごめんなさい)
なんか、テニヲハを直す文章作法が書かれているだけでした。
これじゃあ、とても小説は書けない。
でも、これ表題に「文章レッスン」と書いてるから、村田さんが悪いわけじゃない。
ショートショートは一時、詳しく研究して、応募もしてみた。
今、ショートショートの代表者である、旗手の一人と目される田丸雅智さんの作成術も詳しく理解し検証もしてみている。
でも、今回、特に表題作「ボッコちゃん」はそうしたアイデアストーリーとは一線を画している。
自称ショートショートの鬼才、第一人者を自称する某作家の「書け書け式」の創作教室で、とんでもない目にあった経験があるので、
正直、僕はショートショートが好きではありません。
でも、今回の星さんの作品を分析すると、奇抜なアイデアや発想よりもストーリーテーリングの語りのうまさ、人間観の深さなんだと考えを改めました。
もちろん、このショートショートを研究したのは、国民文化祭、「清流の国ぎふショートショート文芸賞~みんなで書こう!『三枚』の物語~」に応募しようと思ったからなんですが、
原稿用紙3枚って、難しいんですよ。
僕は4枚小説の教室で習ったので、なんとかその変形で出すつもりだったんですが、
きっとアイデアだけの作品を出すと、薄っぺらくなって、A Iが書いた文章みたいにしかならない。
「小説」として成立しないんですよね。
そして、最近のゲシュタルト感覚で星作品を読むと、表面に見える〈絵〉のパートじゃなくて、〈地〉のパートで「書いてないこと」を目標に書かないといけないんだ、と強く感じました。
つまり、実際の表現枚数は、3枚+α枚、なんですね、と。
やってみます。
追記:
この「清流の国ぎふショートショート文芸賞」のあること、その数ヶ月前にたまたま『ボッコちゃん』をブックオフで安く買っていた
こと。
そして、小説に頑張るぞ、の波になっている、この4月の僕。
ゲシュタルト感覚で、星新一作品を分析したことも。
あれも、これも全部、たまたま。
巡り合わせなんですよね。
合わせ技4つの、シンクロニシティ。
きっと、上記の写真の、十数冊の文庫本をチョイスしたこと。
このたまたまが、また次の波を呼び寄せる予感があります。
あらゆる文芸ジャンルへ取り組み、法則化し、体系化すること、それを伝播することが、僕の課せられた運命なんだ、と、
自覚も覚悟も、万全にもうできています。