アニメ「葬送のフリーレン」第26話。ほぼ戦闘シーンでも、深い世界観のある凄さ。明石市文芸祭のこと | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

アニメ「葬送のフリーレン」の第26話の録画を、いつものように早朝に観る。

 

 

今回もほぼ全編、戦いを描くシーンばかりなのに、主人公たちのちょっとした気づきや発見に、そこはかとない世界観を感じる。

それが自分にとって、どういう意味があるのかを消化しきれないまま、いつものmiletのエンディング曲を聞く。

そこでまた、曲全般で説かれている世界観に浸ってしまう。

 

このアニメの凄さは、魔法や異世界が単なる便利アイテムや戦闘の道具じゃなく、そのキャラクターの過去の生き方や、これからどう生きたいかの意思と深く結びついていることだろう。

本来、僕の描きたいファンタジー世界のあるべき姿の一端がここにある。

 

そういえば、思い出しました。

今のところ、僕の唯一の入賞した物語・小説系作品は、5年近く前の第46回(令和元年)「明石市文芸祭」の二席・議長賞になった「からくり天狗飴」なんですが、

これって、たった10枚の作品にそんな〈世界観+和風ファンタジー+時代小説もの〉という話でした。

 

https://www.accf.or.jp/event/bungeisai/

 

 

ふと、デスクの足元に転がる橘玲の著書が目に入って、『人生は攻略できる』を手にとる。

 

「幸福はお金(金融資本)・仕事(人的資本)・愛情・友情(社会資本)の三つの組み合わせによって作られる、この本はその土台作りを書いた」

 

、とある。

 

で、思った。

まだ存在しないものを探す苦しみをずっと戦い続けているけれど、その前に物語には対立か協調かは別にして、軸となる世界観が絶対必要だと気付いたはずだった。

なのに、現状、行動としてはいまだストーリー展開ばかりに囚われてるな、と。

滅ぼすべきは、自分の、こんな態度・姿勢だったのかも。

 

でも、自分の見えない背中の間違いぶりは、なかなか気づけなくて、訂正が難しい。

だから、ようやく取り掛かる講談社児童文学新人賞の落選作の改訂版も、ダメじゃん、という言い続ける自分との戦いになる。

ダメだけれども、どこをどう直せばいいか、わからずほんと難しい。

 

これが多分、正解なのはわかっていても、今までも、時々意識にのぼるがすぐ消えてしまう。

文字通り【ストーリー展開の呪縛というより魔物】だな。

 

まるで自身との禅問答のような日々になる、んだよな。

 

世界観。

それを中心に物語を展開させる。

頭ではわかっていても、できない。

そのまま生の文で書くと評論やエッセイになるからね。

 

きっと、現代詩を書くときには、生(なま)で書かずとも、そこはかとなく滲ませることができる。

いや、むしろ、言葉を書きながら、言葉の不完全さが書かれていない世界観を伝えさせる。

 

〈どう書いたら、いいかの感覚〉が見つからないんだよね。

詩の場合は、なんとなくその〈感覚〉があって、言葉が言葉を呼び出す道筋(幾つもあって)を、自分が感覚的に体感して、しっかりと覚えている。

物語の場合は、周りに生えている背の高い雑草のような〈物語呪縛〉に捕まって、動けない、そこへたどり着けない、のかな。

 

自分の中の感覚倉庫(?)を探ると、そういえば「からくり天狗飴」を書いた時の道筋がくっきりと残っている。

その時のキャラクターたちとの距離感、起こる事象、揺れ動く事件、裏にある人生観や世界観、江戸期の社会体制等々。

その各要素・様相とのバランスの舵取り方。

全体を見通しながら、個別に、各シーンごとの役割意識。

 

そうそう、そういえば、眠っていたけれど、それ、あったよね。

この「からくり天狗飴」は、元は20枚で書いたものを、10枚に縮めました。

主人公の少年は、実は平賀源内がモデルにあって、作中でも最後2行ほどで、正体をバラして触れています。

色々な教室で、プロの児童文学作家の講評や他の受講生からの感想でも、これは要らないと酷評されることが多いけど、

僕は全然、承諾できなくて、外せません。笑

「天狗小僧」と呼ばれた平賀源内の少年時代を描きたかった、がモチーフとしてあったからなんですね。

そうそう柱となる、世界観がしっかりと書くことの意識があったから、

その感覚バランスを保ったまま行けたのかな。

 

今思うと、成功の原因がやっとわかりました。

作品自体は僕の全くの空想世界なんですけど、モチーフの江戸期と平賀源内という柱があって、そこからブレたくなかった。

目指すべき場所がはっきりしていた。

 

ちょうど「葬送のフリーレン」で魔法があくまでもツール・道具であって、メインじゃない、ように。

あのアニメであらわされて、観るものを感動させているのが、フリーレンたちキャラクターの生き様や世界観であるように。

 

「この関係・この感覚を、講談社の300枚に拡大すればいい」

 

書くと、簡単そうな出来事なんですけどね。

ふー、ため息、やってみます。

頭の中にmiletのエンディング曲を流しながら。

 

 

 

 

あと、別件ですが、それと関連して、

この3月の明石市文芸祭での詩が一席・市長賞で表彰されるんだけど、なぜか小説・短歌・俳句とある他ジャンルの市長賞の方でなく、僕が代表として演台で市長から賞を受け取るハメになっております。

まあ、滅多にないことですし、僕としては同時刻進行の受講中のオンライン講座を聞かずに潰す残念さがあるので、もう好きにしてください、心境です。

ラジオ番組でも地元高校生が僕の詩を朗読する企画もあるそうで、きっとその関係で選ばれたんでしょうね。

やれやれ。