現代詩における2大派閥がある。詩における芥川賞って何? | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

今日は詩界における禁断の話題を語ります。(えっ!?)

 

現状、詩だけを書くプロ詩人は気にしていないだろうけれど、現代詩は蛸壺に入っています。

つまり、一般からは完全に乖離してしまっています。

だから、詩といえば、一般からはポエマーとして揶揄されたり、やたら高尚なものとして敬遠されるか、ですよね。

(実際、詩の創作教室へ来ている方からさえも、現代詩っぽい象徴詩ものを合評作品提出すると、「現代詩は……わからない」と90%近くの人に言われます。

 そういう方は、近代詩っぽい、自らの心情を気持ちよく語る抒情詩が多いですね)

 

プロの詩人たちは、孤高の存在であることに満足しているのか、そうした現状を変える活動はしていないと思います。

 

その典型だと思う1つは、本当は詩界における芥川賞に相当するH氏賞の選考過程が一般には全く知られないまま、

また僕のような詩を書く非プロ詩人にもほとんど見えないまま、ずっと放置されていることに、よく現れていると思います。

 

だって、一般には、中原中也賞が詩に多ける芥川賞だと誤解されていますよ。

そもそも、中也賞は雑誌『ユリイカ』4月号で特集が組まれ、メイン記事として紹介されますからね。

 

 

 

 

いや、それどころか、一般には、萩原朔太郎賞より、もしかしたら中也賞の方が上だと思われているかもしれません。

朔太郎賞は、かろうじて文芸誌の『新潮』で受賞作が紹介されるけど、表紙を見ても新潮賞新人賞のオマケ扱いですよね。

以下の図像を見てください。

朔太郎賞は、一番下に横書きが小さくあるだけですよ。

 

 

確か対談も組まれないし、講評がサラッと数ページあるだけだった気がします。

これなど中也賞での対談が、選考過程でのプロ詩人の見方を伝えるだけに、非常にもったいないです。

 

まあ、もちろん『新潮』のメインは小説ですから、仕方ないといえば仕方ないですけど。

 

また、僕は小説も書くので、不思議に思うのは、あまり表立って言われませんけど、

詩においては2大グループに分かれていて抒情詩派と、言語修辞派&象徴詩派としてあり、

前者は音楽的でありポエジー重視、後者はときに散文詩的でありつつポエジーが見つけにくい、に分かれてますよね。

 

前者は詩誌「詩と思想」に、後者は詩誌「現代詩手帖」に代表されて、かつ、現状、「現代詩手帖」と思潮社側が大きく権威を持っている。

「現代詩手帖」に依拠する全員が言語修辞・象徴詩派じゃないけれど、概ね、それが代表されている。

そして、そうした流れとは別に、谷川俊太郎と最果タヒが別個に存在している。

それが僕のもつ、現代詩のイメージです。

(僕個人は、何度もこのブログで述べているように、抒情詩も象徴詩もどちらも好きです。

 でも、そんな僕ですら、現在の「現代詩手帖」の言葉の垂れ流しや散文もどきで整理されない入選作品には、ついて行けません。

 面白さがわからないです。(もちろん、僕自身の力不足もあります)

 僕、個人は全部の詩がわかる必要はないし、わからない詩があってもいいと思います。

 けど、そうした実験作品ばかり増えるのはどうなの? と感じています)

 

ある詩人は、「現代詩手帖」をエリート主義であり、「詩と思想」はオープン主義だ、と形容しました。

ある意味では、その通りだと思います。

「ユリイカ」は「現代詩手帖」側寄りで、その分家ですよね。

 

あと、現代詩の危機の2つ目は、ジュンク堂ですら、「現代詩手帖」は大型店以外で置いていないことです。

「詩と思想」などは関西では、あの一番、人の多い紀伊國屋・梅田店以外で見たことはないですよ。

もう現代詩は滅んでしまいます、というより、現状、詰んでオワコン化しています、から。

 

僕は、「わかりやすい抒情詩を書け」といっているのではないのです。

詩を広め普及する努力をするべきだと思っているんです。

 

それとは別に、詩が生き残る方策の打開策は、もっと詩と小説が融合すればいいと思っています。

そうすれば、映画やドラマ化される小説が自然に広告媒体になってくれますから。

(この点では、小説は強いコンテンツです)

高校の国語便覧なんか、現代詩の扱いはミニマムです。

ずっと中也と賢治と朔太郎、光太郎止まりです。

国語教師はそれが普通だと思っていますが、現代の詩人はもっと危機感を持つべきですよ。

(いずれ、荒川洋治さんの「美代子、あれは詩人だ。石を投げなさい」どころか、珍獣扱いすぎて、剥製にされかねない。
 敬愛する荒川洋治さんの’94年の、この詩から30年です。
 何より剥製化した近代詩人にずっとページ負けしている現代詩って、どうなの?
 現代小説は、漱石・鴎外に対して、村上春樹をはじめ、他の作家たちも年々、便覧で、どんどんページは割かれてますよ。)

 

最新の国語便覧を見る体験がありますから、総合的な文芸の観点を述べますよ。

短歌・俳句が掲載されてるのに、川柳は皆無です。

柳人の方(そもそも、この言い方も不思議でしょう? 歌人、俳人、詩人は一般語なのに)はどうお思いなのでしょう。

児童文学は、少し触れられますが、小説の一部扱いですよね。

 

愛好者人口で、短歌、俳句に負けている詩の未来はどうなのでしょう。

きっと、詩人メインの方で、俳句、短歌はやらないですよね。

逆パターンはままあるのに。

(この総合文芸についてはまた後日に書きます)

 

小説の伝播力を意図的に利用する。

つまり、書ける詩人にどんどん小説も書かせる。

詩の専門誌で、小説と詩を両方関係させた特集をする。

また、一般文芸誌に、そのコラボ特集をねん1回やらせる。

僕は、それ以外に、現代詩が生き残る道はないとも思っています。

 

高校の授業で、中也と賢治の近代詩すらスルーされて、詩が扱われなくなって久しいでしょう。

現代詩は、メインの科目の教科書からは完全に消えています。

 

でも現状、小説家が詩を書くことはほとんどないでしょう。

詩を詩人だけしか読まないのは、大変勿体無いし、残念なことです。

 

また、詩と小説、両方、書く人は、もともと詩人で詩を描いていた人がたまたま小説も書いている、といったもので、

ほとんどの場合、小説を書き出すと、詩人は詩の世界へは戻ってこない。

 

たぶん、定期的に詩集を出されている小説家は、小池昌代先生だけですよね。

他の方は、若い人で小説を依頼されて書いているだけな気がします。

 

それじゃ、ダメですよね。