よく、このブログで、僕は「才能主義反対!」とか、
「才能天授説が最も苦手とする考え方だ」とか、せっせとシュプレヒコールしています。
が、もちろん、それは僕自身の中に、拭っても、拭っても、何度消したつもりでも、沸いてでて来る考え方だから、声高に否定せざるを得ないんです。
ほんと、行き詰まると、
すぐ「才能がない」「できない」と、つい逃げたくなる。
思考停止したくなるんです。
ほんと、1年の5分の一は、そう思ってるんじゃないかと思うぐらい、その考えと戦っています。笑
本気で、その才能主義に負けかかってるわけじゃないんです。
後の、5分の4は「けっ! 才能主義め、絶対、滅ぼしてやる」と嘯(うそぶ)いておりますから。
でも、気を抜くと、負けそうになります。
楽なんですね。
才能を原因にすると、努力しなくていい、苦しまなくていいから。
他人を、才能を与えなかった神様を恨んでいればいいから。
(オレのせいじゃないんだよ、って)
さて、【ストーリー展開の呪縛】=起承転結の意識から逃れられないので、
書けないんじゃないか、と気づいて、
ずっと紹介しているマンガの書き方本である『ストーリー&キャラ創作入門』の通り、実践してみようとしています。
例えば、〈企画書〉を作る。ストーリーでも、プロットでもなくて。
これ、文字通り〈企み〉だから、すごくいいかもしれない。
今までのやり方を全て忘れて新しいアプローチになるのだから。
月2本の企画書を考える。
これって、詩のタネを考えるのに似ている気がする。
なら、できるはずだ。
でも、今、当面の目標である講談社児童文学新人賞の原稿300枚には不適当なので、この企画書方式は後回しに。
ここで、やろうとしているのは、起承転結の代わりに、〈イントロ・中盤・山場・後日談〉方式。
これって、〈展開の企み〉になるのですね。
つまり、展開の流れは意識しつつも、それぞれ各章の集まりごとに、各個撃破で考えていく、というもの。
うん、これなら粗筋的な大掴み展開の呪縛から、逃れられて、考えやすそうに思いますです。
例えば、モンブランか、苺のショートケーキか、売り味と最終形態を決めてないとケーキなんか作れやしないですよね。
また、下拵えがあってこそ、初めてケーキは作れるものだ。
いきなりできる訳じゃない。
バドミントンでも、前腕の回内回外運動が要る、各種ショットが要る。
それらと同じように、修練が必要なんですね。
今がその時。
それを我慢して遂行できるかどうか、が問題だったわけです。
バドミントンで、生徒らに教えていても、その修得が我慢できず、とにかくシャトルを飛ばせたら結果OKでいいんだ、と自分の打ち方にこだわろ、新しい技術を拒否する生徒は多くいます。
その子らと同じように我慢できないで終わるの?
やればいいとわかっているにもかかわらず?
怠惰や面倒臭いの感情に負けてしまうの?
そう、自分へ問いかけます。
プロ作家のよく言うセリフ。
「毎回、小説の書き方が分からない」
これって、言葉通りじやない。
一定の手順や型を習得・実行できるスキルを習得している上での、あり方が前提で、吐かれた言葉のもの。
詩でも、自分の得意な型をもっていたとしても、だからと言って、毎回同じ詩にならないのと同じだよね。
だから、型がいらないのではない。
むしろ、ある種の型が、今、なんとなくでいいから、必要なんですよ。
学校の素晴らしいところは、半ば強制的に勉強する環境になること。
一時間、90分ごとに区切られて、集中できる。やるしかない環境に陥る。
やらないでいい理由を見つける暇がない。
でも、今、僕個人がやる小説の書き方なんて、誰に強制されるわけじゃない。
強制力を持つ先生はいない。
でも、だからこそ、自分自身の、個人のわがままに負けてしまう。
逃げちゃうんですね、それこそ、「才能がないから、やっても無駄だ」と。
信じてもいない言い訳を理由にして、いくらでも怠けれちゃう。
この、『ストーリー&キャラ創作入門』本は、確かにマンガのネーム系の本だけれど、
文学を神格化して、違うんだ、と逃げないようにしたい。
どんなジャンルの考えだろうが、自分に欠けているところを補い埋められるのなら、それでいい。
それでこそ自分の学ビストたる本領の発揮になるはず。
出来ないことを「才能がないと思い込む軛(くびき)」に逃げる姿勢を、1個ずつ外してゆくのが、これまでの僕の人生だったはず。
『ストーリー&キャラ創作入門』に、書かれているのは、
【読者の感情移入を誘うことが大事】
これがないとどうにもならないと繰り返し書いています。
文学の神格化は、芸術の神格化であり、独りよがりの自分ファーストに繋がりかねない。
いや、違うはず。
商業ベースなのが、本であり、小説。
バドミントンで、ラケットがあり、シャトルを撃つのとナジくらい、揺るがせないフォーマットだ。
真の読み手ファースト。
才能の有無なんて、関係ない。
それはもっと先での話。
まずは、フォーマットを逸脱しない。
そのルール・フォーマットで試合が開催されて、そこで優勝しないといけないのだから。
入賞するとは、そういうこと。
レギュレーション違反はもってのほかだ。
で、つっつと、元マンガ原作者だった時代小説家の高田郁さんのデビュー作を「出世花」を読み込んだ。
しっとりと情感あふれる人情や人生が描かれている。
いいなあ。
面白いなあ。
何よりも、しっかりと感情移入が書かれてある。
また、これは山本周五郎のテイストがありか、藤沢周平っぽさだな、とも思う。
両方とも、文学の、小説界の巨匠だ。
エンタメじゃんと逃げるな、よ。
まず同等に書けてからだろう。
その台詞は。