すぐ才能がない、できないから、と逃げて思考停止したくなる。楽だから | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

よく、このブログで、僕は「才能主義反対!」とか、

「才能天授説が最も苦手とする考え方だ」とか、せっせとシュプレヒコールしています。

が、もちろん、それは僕自身の中に、拭っても、拭っても、何度消したつもりでも、沸いてでて来る考え方だから、声高に否定せざるを得ないんです。

 

ほんと、行き詰まると、

すぐ「才能がない」「できない」と、つい逃げたくなる。

思考停止したくなるんです。

ほんと、1年の5分の一は、そう思ってるんじゃないかと思うぐらい、その考えと戦っています。笑

 

本気で、その才能主義に負けかかってるわけじゃないんです。

後の、5分の4は「けっ! 才能主義め、絶対、滅ぼしてやる」と嘯(うそぶ)いておりますから。

でも、気を抜くと、負けそうになります。

楽なんですね。

才能を原因にすると、努力しなくていい、苦しまなくていいから。

他人を、才能を与えなかった神様を恨んでいればいいから。

(オレのせいじゃないんだよ、って)

 

さて、【ストーリー展開の呪縛】=起承転結の意識から逃れられないので、

書けないんじゃないか、と気づいて、

ずっと紹介しているマンガの書き方本である『ストーリー&キャラ創作入門』の通り、実践してみようとしています。

 

例えば、〈企画書〉を作る。ストーリーでも、プロットでもなくて。

これ、文字通り〈企み〉だから、すごくいいかもしれない。

今までのやり方を全て忘れて新しいアプローチになるのだから。

月2本の企画書を考える。

 

これって、詩のタネを考えるのに似ている気がする。

なら、できるはずだ。

 

でも、今、当面の目標である講談社児童文学新人賞の原稿300枚には不適当なので、この企画書方式は後回しに。

ここで、やろうとしているのは、起承転結の代わりに、〈イントロ・中盤・山場・後日談〉方式。

これって、〈展開の企み〉になるのですね。

つまり、展開の流れは意識しつつも、それぞれ各章の集まりごとに、各個撃破で考えていく、というもの。

 

うん、これなら粗筋的な大掴み展開の呪縛から、逃れられて、考えやすそうに思いますです。


例えば、モンブランか、苺のショートケーキか、売り味と最終形態を決めてないとケーキなんか作れやしないですよね。

また、下拵えがあってこそ、初めてケーキは作れるものだ。

いきなりできる訳じゃない。

バドミントンでも、前腕の回内回外運動が要る、各種ショットが要る。

それらと同じように、修練が必要なんですね。

今がその時。

それを我慢して遂行できるかどうか、が問題だったわけです。

 

バドミントンで、生徒らに教えていても、その修得が我慢できず、とにかくシャトルを飛ばせたら結果OKでいいんだ、と自分の打ち方にこだわろ、新しい技術を拒否する生徒は多くいます。

その子らと同じように我慢できないで終わるの? 

やればいいとわかっているにもかかわらず? 

怠惰や面倒臭いの感情に負けてしまうの?

 

そう、自分へ問いかけます。

 

プロ作家のよく言うセリフ。

「毎回、小説の書き方が分からない」

これって、言葉通りじやない。

一定の手順や型を習得・実行できるスキルを習得している上での、あり方が前提で、吐かれた言葉のもの。

詩でも、自分の得意な型をもっていたとしても、だからと言って、毎回同じ詩にならないのと同じだよね。

だから、型がいらないのではない。

むしろ、ある種の型が、今、なんとなくでいいから、必要なんですよ。

 

学校の素晴らしいところは、半ば強制的に勉強する環境になること。

一時間、90分ごとに区切られて、集中できる。やるしかない環境に陥る。

やらないでいい理由を見つける暇がない。

 

でも、今、僕個人がやる小説の書き方なんて、誰に強制されるわけじゃない。

強制力を持つ先生はいない。

でも、だからこそ、自分自身の、個人のわがままに負けてしまう。

 

逃げちゃうんですね、それこそ、「才能がないから、やっても無駄だ」と。

信じてもいない言い訳を理由にして、いくらでも怠けれちゃう。

 

 

この、『ストーリー&キャラ創作入門』本は、確かにマンガのネーム系の本だけれど、

文学を神格化して、違うんだ、と逃げないようにしたい。

どんなジャンルの考えだろうが、自分に欠けているところを補い埋められるのなら、それでいい。

それでこそ自分の学ビストたる本領の発揮になるはず。

 

出来ないことを「才能がないと思い込む軛(くびき)」に逃げる姿勢を、1個ずつ外してゆくのが、これまでの僕の人生だったはず。

 

『ストーリー&キャラ創作入門』に、書かれているのは、

 

【読者の感情移入を誘うことが大事】

 

これがないとどうにもならないと繰り返し書いています。

 

文学の神格化は、芸術の神格化であり、独りよがりの自分ファーストに繋がりかねない。

いや、違うはず。

商業ベースなのが、本であり、小説。

バドミントンで、ラケットがあり、シャトルを撃つのとナジくらい、揺るがせないフォーマットだ。

真の読み手ファースト。

 

才能の有無なんて、関係ない。

それはもっと先での話。

まずは、フォーマットを逸脱しない。

そのルール・フォーマットで試合が開催されて、そこで優勝しないといけないのだから。

入賞するとは、そういうこと。

レギュレーション違反はもってのほかだ。

 

で、つっつと、元マンガ原作者だった時代小説家の高田郁さんのデビュー作を「出世花」を読み込んだ。

しっとりと情感あふれる人情や人生が描かれている。

いいなあ。

面白いなあ。

 

何よりも、しっかりと感情移入が書かれてある。

 

また、これは山本周五郎のテイストがありか、藤沢周平っぽさだな、とも思う。

両方とも、文学の、小説界の巨匠だ。

エンタメじゃんと逃げるな、よ。

まず同等に書けてからだろう。

その台詞は。