最近、このブログに「書いて応募するぞ」と宣言している評論新人賞を、
文字通り論文のように書きかけていて、ふと気づいた。
ページ数を細かく記載しかけてみると、
これ、評論にはほとんどないよね、と。
たぶん高校の国語の教科書で一番、評論を読んだと思うけど、
ほんとそんなこと、なかった。
小林秀雄の評論を思い浮かべながら思う。
評論と論文は似て非なるものだぞ、と。
小林秀雄の評論は美しく深遠で哲学的だけど、あれは論文じゃない。
そこで、他者意見や作品はあくまでも参考として引用されただけで、確かに小林の自論が優先だった。
それを読むのが、楽しみで読んだのだったよね。
凄く文学的な文章で、作者の主張が、そこにはあった。
つまり、論文とは似て非なるものなのでは?
じゃあ、評論を書こうとすると、どうすればいいのかな。
普段、このブログに敬体「ですます調」で書いている文を、
常体で論理を骨子としつつ、小林秀雄のように(同じようには絶対、無理だけど。笑)文学的に、
あるいは、ある瞬間、あんな風に詩的に書けばいいということなのかな。
国語の教科書でも、エッセイぽい評論って山ほどあるからね。
小林秀雄をイメージすると、恐れ多くて書けなくなるから、
とりあえず、このブログで述べていることをもう少し硬めの文章にして、書き続けてみようかと思う。
そもそも、昨日のブログの文章だった、文字だけで1,800字=4,5枚あるんですよ。
多分空白文字を勘定に入れれば、5枚以上は間違いなくある。
この6日分か。
次の土日は、放送大学スクーリングだから、金曜日までのあと4日で仕上げないと。