バドミントンと、詩に関しての話の続き | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

昨日は、お昼少し前からバドミントンのおまけで名目だけのコーチをしている高校の公式戦へ出かけました。

ベンチで色々とアドバイスして、戦法と試合運びを説きます。

団体戦で、競り合いながらも2回戦を勝ち抜き、

そこは今日、前年度(といか、毎年全国へ行く常勝)の第1シード優勝チームと対戦します。

 

今日は、行きません。

会場への交通時間も含めると、前後も合わせて、半日以上、時間を取られますから。

 

自分が正式コーチの小学校の開放教室で、小学生とかを午前中、教えるし、

午後は午後で「中原中也の会」の会合へ初参加しますので。

 

僕の用事を優先しないと、その高校は無償のボランティアですからね。

小学校は、一回500円だそうで、有償なので、働きにあうことをしないといけませんから。

何よりも、そこのコーチを正式には引退しているので、高校生にはいつまでも僕を当てにしてもらっては困ります。

 

さて、詩について、また着想が勝手に降りてきて、

一つ素案をさっき書きました。

 

で、今の詩の教室での、先生方の教えと、小説・児童文学で、最近、ここで書いているテーマ・企み・方向性のことが、

ふっと融合しました。

 

先生方の講義を拝聴していると、どうやら、まだまだ、自作や自分の詩の書き方は、

自分の欲求(書き手事情)中心で、読み手を考えていないな、ということに改めて気付かされました。

 

つまり、「書きすぎ」なんですね。

筆の置き時、止め時がわかってないとも言えるし、

もっと「曖昧な書き方」で切り込まないと、読み手の想像力が働く余地を切り捨てて、

ありきたりに終わってしまってます。

別に気を衒うことを勧めているわけじゃなくても、自分で自分の気持ちを限定してるんですね。

 

実際は、もっと細かな気づきや可能性のある感情があるのに、それを書き切らずに、安易な方向へ走ってる気がしたわけです。

 

前にも、ここで書いたように、詩や短歌を書くこということは、日常では見逃している、微細な気持ちに気づくことや、事象を発見することだと思っています。

これは書くからこそ、細やかな感性を「開発」するわけで、最初からあるわけじゃありません。

(もちろん、そんな人もいるんでしょうが)

現実社会を生きるとは、そんなセンシティブな感性を鈍磨していなければ、傷ついて生きられないわけですよ。

 

詩歌を書くとは、センシティブな感性を磨き深めながら、強さも守らなければいけないことだ、と僕は思います。

 

安易な常識的な言葉で満足して、自己陶酔してては、第1級の作品は創れないと思っています。

現状、僕の作品は、自己ベストで1.5級品程度で、少なくとも全部が2級品ではないと思いますが、

果たして、第1級になれてるかと思うとそうではない、のが実態でしょう。

それを、1.2級品から1級品にするには、言葉の多元性をちゃんと使いこなさないといけない思っています。

超1級品や特級品でありたいですが、それは1級品を作ってから考えればいいんじゃないか、と。

 

まだまだ、軸足は小説の方に置いていますが、詩の方は詩の方で、時間的には片手間でも、錬磨を緩めるつもりはありません。

まだまだ進化する、まだまだ変わる伸び代はある、そう思いたいです。

 

「中原中也の会」については、また報告します。

ああ、中也賞、欲しいなあ。笑

最終候補になるぐらいの詩集を書きたいです。