昨日は、お昼少し前からバドミントンのおまけで名目だけのコーチをしている高校の公式戦へ出かけました。
ベンチで色々とアドバイスして、戦法と試合運びを説きます。
団体戦で、競り合いながらも2回戦を勝ち抜き、
そこは今日、前年度(といか、毎年全国へ行く常勝)の第1シード優勝チームと対戦します。
今日は、行きません。
会場への交通時間も含めると、前後も合わせて、半日以上、時間を取られますから。
自分が正式コーチの小学校の開放教室で、小学生とかを午前中、教えるし、
午後は午後で「中原中也の会」の会合へ初参加しますので。
僕の用事を優先しないと、その高校は無償のボランティアですからね。
小学校は、一回500円だそうで、有償なので、働きにあうことをしないといけませんから。
何よりも、そこのコーチを正式には引退しているので、高校生にはいつまでも僕を当てにしてもらっては困ります。
さて、詩について、また着想が勝手に降りてきて、
一つ素案をさっき書きました。
で、今の詩の教室での、先生方の教えと、小説・児童文学で、最近、ここで書いているテーマ・企み・方向性のことが、
ふっと融合しました。
先生方の講義を拝聴していると、どうやら、まだまだ、自作や自分の詩の書き方は、
自分の欲求(書き手事情)中心で、読み手を考えていないな、ということに改めて気付かされました。
つまり、「書きすぎ」なんですね。
筆の置き時、止め時がわかってないとも言えるし、
もっと「曖昧な書き方」で切り込まないと、読み手の想像力が働く余地を切り捨てて、
ありきたりに終わってしまってます。
別に気を衒うことを勧めているわけじゃなくても、自分で自分の気持ちを限定してるんですね。
実際は、もっと細かな気づきや可能性のある感情があるのに、それを書き切らずに、安易な方向へ走ってる気がしたわけです。
前にも、ここで書いたように、詩や短歌を書くこということは、日常では見逃している、微細な気持ちに気づくことや、事象を発見することだと思っています。
これは書くからこそ、細やかな感性を「開発」するわけで、最初からあるわけじゃありません。
(もちろん、そんな人もいるんでしょうが)
現実社会を生きるとは、そんなセンシティブな感性を鈍磨していなければ、傷ついて生きられないわけですよ。
詩歌を書くとは、センシティブな感性を磨き深めながら、強さも守らなければいけないことだ、と僕は思います。
安易な常識的な言葉で満足して、自己陶酔してては、第1級の作品は創れないと思っています。
現状、僕の作品は、自己ベストで1.5級品程度で、少なくとも全部が2級品ではないと思いますが、
果たして、第1級になれてるかと思うとそうではない、のが実態でしょう。
それを、1.2級品から1級品にするには、言葉の多元性をちゃんと使いこなさないといけない思っています。
超1級品や特級品でありたいですが、それは1級品を作ってから考えればいいんじゃないか、と。
まだまだ、軸足は小説の方に置いていますが、詩の方は詩の方で、時間的には片手間でも、錬磨を緩めるつもりはありません。
まだまだ進化する、まだまだ変わる伸び代はある、そう思いたいです。
「中原中也の会」については、また報告します。
ああ、中也賞、欲しいなあ。笑
最終候補になるぐらいの詩集を書きたいです。