二匹目のドジョウは居なかった | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

昨日、無理して、午後、某カルチャーセンターの俳句講座へ体験参加しました。


結論から言うと、

二匹目のドジョウは居ませんでした。

(エンタメ界には、3匹まで、ドジョウは居る、の格言もあるそうですが)

影も形もない。

あったのは、例の「数を書きましょう、お化け」。

それ、才能天授主義ですね。


「じゃあ、皆さん、最近あった出来事で、印象に残ってたことは?」の一言がもしあって、

少しでも先生のアドバイスあれば、

そうして作らせるだけでも、

そんな時間を受講生に5分、与えるだけでも、違うと思うのですが?

作り置きの句を持ち寄る句会形式だけでは、何も変わらない、進歩は起きにくい、と僕は思います。

残念ながら、単なる茶話会化していました。


先生自体は、ぜひお会いしたかったし、権威主義ではなく、すごく素敵な人でした。

その感覚、感性もなんとなくわかりました。

もっと、そこを掘り下げて教えて欲しかった。

もちろん、

字面だけでは、わからないことも対面では、たくさん理解できた気がします。

その点では、行って良かった。


もともと、俳句は季語の扱いや、結社性の強さ(=経験値の優先度の高い文芸)なので、

こうだろう、とは、わかってたことなんですが、

ここもそうなのか、自分の目で確認したかったんですね。


と言うことで、最近、受けた岡野大嗣さんの教室内での教授法との、

圧倒的なまでのレベル差を感じました。


短歌との自由度の差もあって、岡野大嗣さんの、いい意味での異質なほど、優れた教授法の先進性を感じました。


きっと、僕はもう二度とは俳句教室へ行かないでしょう。


(でも、敢えて俳句で,言うなら、ちらっとだけ、坪内稔典さんの本格的な講義をまだ受けたい気持ちはあるかな。

夏井いつきさんは、講義値段が高すぎるし、たくさんある著書で充分でしょう。)


ちょうど、児童文学協会の単発講座が4月に一つあるんですが、

その一回で7.000円という値段の高さもあって、躊躇しています。

その方の著作を何冊も読んでも、こちらの心にまるで響かなかったので、

見送ろうと思っています。


著作が凄いと感じたら、受講にやぶさかではないのですが。

正直、響かなかったので、どうしようもありません。


もちろん、ハズレくじも買う主義なのですが、

自分的にはハズレが分かりきって、合わないと感じているものは、避けています。笑


とにかく、失敗も成功も、学ぶ経験値のカウント数には変わらない。

今は使えなくても、後になって、「ああ」と分かることもある。


今の僕には響かなかっただけ。

そもそも、俳句だ、短歌だ、詩だ、というジャンル分け自体、意味がない。

良いものは取り入れるだけ。

すべては、賢治の言うように「心象スケッチ」で同じものてすから。


他人の作品・作家についての価値判断も、強制はしてほしくない。

あくまでも、「その人にとって」「その特定の時間での」価値判断でしょう?


もし、その人が日々、進化していたら、5年前、10年前の評価は、

今、読み直せば、きっと変わってる可能性ありますよ。

その人が、自分自身のスタイルを確立してるのなら、尚更のこと。

他人とは,違う。

してないのなら、他人にはもっと不要なこと。


学ビストでない人には、世阿弥の「守破離」は理解できないでしょう。

きっと「離」できないことだけも、残っていくはずですから。

それを理解しない「矯正指導」には、僕は付き合えないです。