昨日、無理して、午後、某カルチャーセンターの俳句講座へ体験参加しました。
結論から言うと、
二匹目のドジョウは居ませんでした。
(エンタメ界には、3匹まで、ドジョウは居る、の格言もあるそうですが)
影も形もない。
あったのは、例の「数を書きましょう、お化け」。
それ、才能天授主義ですね。
「じゃあ、皆さん、最近あった出来事で、印象に残ってたことは?」の一言がもしあって、
少しでも先生のアドバイスあれば、
そうして作らせるだけでも、
そんな時間を受講生に5分、与えるだけでも、違うと思うのですが?
作り置きの句を持ち寄る句会形式だけでは、何も変わらない、進歩は起きにくい、と僕は思います。
残念ながら、単なる茶話会化していました。
先生自体は、ぜひお会いしたかったし、権威主義ではなく、すごく素敵な人でした。
その感覚、感性もなんとなくわかりました。
もっと、そこを掘り下げて教えて欲しかった。
もちろん、
字面だけでは、わからないことも対面では、たくさん理解できた気がします。
その点では、行って良かった。
もともと、俳句は季語の扱いや、結社性の強さ(=経験値の優先度の高い文芸)なので、
こうだろう、とは、わかってたことなんですが、
ここもそうなのか、自分の目で確認したかったんですね。
と言うことで、最近、受けた岡野大嗣さんの教室内での教授法との、
圧倒的なまでのレベル差を感じました。
短歌との自由度の差もあって、岡野大嗣さんの、いい意味での異質なほど、優れた教授法の先進性を感じました。
きっと、僕はもう二度とは俳句教室へ行かないでしょう。
(でも、敢えて俳句で,言うなら、ちらっとだけ、坪内稔典さんの本格的な講義をまだ受けたい気持ちはあるかな。
夏井いつきさんは、講義値段が高すぎるし、たくさんある著書で充分でしょう。)
ちょうど、児童文学協会の単発講座が4月に一つあるんですが、
その一回で7.000円という値段の高さもあって、躊躇しています。
その方の著作を何冊も読んでも、こちらの心にまるで響かなかったので、
見送ろうと思っています。
著作が凄いと感じたら、受講にやぶさかではないのですが。
正直、響かなかったので、どうしようもありません。
もちろん、ハズレくじも買う主義なのですが、
自分的にはハズレが分かりきって、合わないと感じているものは、避けています。笑
とにかく、失敗も成功も、学ぶ経験値のカウント数には変わらない。
今は使えなくても、後になって、「ああ」と分かることもある。
今の僕には響かなかっただけ。
そもそも、俳句だ、短歌だ、詩だ、というジャンル分け自体、意味がない。
良いものは取り入れるだけ。
すべては、賢治の言うように「心象スケッチ」で同じものてすから。
他人の作品・作家についての価値判断も、強制はしてほしくない。
あくまでも、「その人にとって」「その特定の時間での」価値判断でしょう?
もし、その人が日々、進化していたら、5年前、10年前の評価は、
今、読み直せば、きっと変わってる可能性ありますよ。
その人が、自分自身のスタイルを確立してるのなら、尚更のこと。
他人とは,違う。
してないのなら、他人にはもっと不要なこと。
学ビストでない人には、世阿弥の「守破離」は理解できないでしょう。
きっと「離」できないことだけも、残っていくはずですから。
それを理解しない「矯正指導」には、僕は付き合えないです。