昨日と同じブログのコメントから思ったこと | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日と同じような記事で申し訳ありませんが、

昨日の、このブログ記事「昨日のブログ記事のコメントで気づいたこと」につけて頂いた、

ポエム水さんからのコメントが、とても大きなものになったので、

今日も、ここで返信を書かせていただきます。

(ポエム水さん、貴重なコメント、ありがとうございます)

>全く知らない人なのに、なぜかその人を思い出せる懐かしさは祝祭が継続している証拠ですね。物語が死ななかったということですよ。

ポエム水さんのこのコメントは至言だなあと気づきました。

僕には、とても大きなもので、ハッとさせられました。

以下のようなコメントで、僕は対応しました。


「なんとなくわかります。
 そういえば、自分にも忘れられない主人公たちのいる物語がありました。
 自分の場合、エドガー・ライズ・バローズの『火星シリーズ』や、平井和正の『ウルフガイ』シリーズ、複数作家のリレー小説 

 『ペリー・ローダン』シリーズでしょうか。
 これらの物語で救われた経験があることを思いましました。」

 

そう、それは暗く苦しい小学高学年・中学時代のことでした。

たぶん、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』で、疾風怒濤の時代と、青春期を形容していた記憶がありますが、

まさに自分にとっての疾風怒濤の頃で、限りなく死の淵に近づき、覗き込んでいた頃でした。

イジメもあったし、自分への絶望もあったし、孤独もあったし、この世の罪悪を何もかも背負い込んでいた時代でした。

 

『火星シリーズ』のジョン・カーターの、どんな絶望的な状況にも怯まず、

「We are still alive(我々はいまだ生きている)」と吐く言葉に、どれだけ救われたか。

 

同様に、ウルフガイ・狼男の犬神明のへらず口に、どれだけ勇気づけられたか。

 

ローダンの、そして、僕のハンドル・ネームのアトランの元になった男、アルコン人のアトランの「これがテラナー(地球人)

だ」の台詞に、

どれだけの希望を持てたことか。

 

今の今まで、遠い記憶の彼方に封印されていましたが、

まだまだ挙げきれない無数の物語の中の、主人公たちと共に生き、笑い、泣いた日々。

 

その苦しみの日々も含めて、それが実は祝祭の日々であり、特別な非日常の「ハレ」の舞台だったんだと今ならわかります。

だからこそ、自分は小説が忘れられないし、諦めることができないんだと今、はっきりと思い出せました。

正に、そこに〈死なない物語〉があったんですね。

 

また、WEBサイトで、火星シリーズをスターウォーズと合わせて二次創作している物語があって、読みながらあの頃をありありと思い出しました。

 

あの頃の、泡立つ皮膚感覚、慄きを今、はっきりと思い出せました。

物語と付随する、10代の感性、感覚、不安感、訳のわからなさ。

今の詩的感性と大人の感覚で、追想の中の少年期を一瞬、追体験をしました。

 

皮肉なことに、小説よりも、詩作において、この追体験が有効な予感もあります。

こんな揺り戻しが人生にはあるんですね。

 

物語。

今はまだ、全部は消化しきれない、この感覚。

しばらく考えてみます。


眠るもんちゃん。

いわゆる、アンモナイト型。

どんな疾風怒濤の時なんだろう。