日曜日のアクセス数が316でした。
土曜日に引き続き、ありがとうございました。
ともかく、皆さんの創作にとって、有益な情報になるよう考察や体験を書き続けます。
よろしくお願い申し上げます。
さて、今日は休みをとって、午前中、詩の教室です。
そして、昨日、別の詩の教室が6回目で終わりました。
先生は、生活詩・抒情詩派なので、終始、僕の詩は難解で、他人は読んでくれないとダメ出しをもらい続けました。
それは手厳しいけど、一面の真実であります。
もちろん、全面的に受け入れる訳ではありませんが。
受講生の方々の詩は、先生の言われる散文詩ベースの語り口の生活詩が大部分です。
確かな読みやすい。
でも、そのままだと、今日の短歌と詩の境界論で、穂村弘さんが言った〈人生日記〉に陥ってしまっているようで、
僕には逆についていけない気がします。
それだと、なんか不幸な境遇や、肉親の死や失恋など不幸な出来事がなければ、
詩にならない、詩にしてはいけない私小説みたいです。
僕もそんな詩を書くときはありますが、そればかりにしろ、とは全く思えません。
僕はたぶん非〈人生日記〉派なんだと思います。
だから、社会性の高い詩を書いてしまうんでしょうね。
今日、行く教室の先生は、ニュートラルな立場であっても、
散文詩ベースではない方です。
どちらかと言えば、〈人生日記〉でない詩もOK派です。
やっぱり、普通に書くと難しい書き方と批評を頂いていますが、
昨日の教室と同じ作品二つを提出したら、先生も受講生も、比較的、面白いという反応でした。
受講生は、やっぱり先生の指導に引っ張られますから(僕みたいな〈ヒネクレ学びすと〉でなければ)。
いわゆる現代詩的な傾向の詩には、こちらの教室の方が受け入れられるようですね。
僕の詩など、現代詩手帖的な本家からすれば、象徴詩っぽいところは、ほんの少しだと思うんですが。
さて、結局、中原中也賞は箸にも棒にもだったので、努力するのはいいけど、根本的に方向性が間違ってたら、目も当てられないと、思っています。
気がつくと、某地方新聞文芸、ココア共和国、ユリイカ、現代詩手帖、びーぐる、詩と思想、毎月6篇体制を取ってしまってました。
必ずしも、ぜんぶ新作じゃないし、改作、改稿も半分の時もあるんですが、
元は戻そうと思っています。
3系統または2系統にまず分けようと思います。
Aココア共和国・落選⇒C地方新聞文芸
Bユリイカ・落選⇔現代詩手帖・落選⇒びーぐる⇒詩と思想
6篇体制じゃ、小説書く時間無くて当たり前じゃんと思っています。