勝手にシリーズ化してしまった〈……短歌と詩の境界を彷徨う〉コラム。(おいおい)
第2弾は『ユリイカ あたらしい短歌、ここにあります』’16年8月号です。
文字通り、ニューウェブ短歌の騎手・穂村弘さんと最果タヒの対談が載っていて、
これも再読しています。
特に最果タヒさんの短歌へのコメントの端々から、またぞろ、短歌と詩の境界感覚を読み取ろうとしております。
でも、そういう詩と短歌の違いというよりも、穂村弘さんが徹底的に伝統短歌の感覚を法則化してしまってるながら面白いんですよ。
例えば、
「台がちょっとかたむるとか、手すりが剥げてるみたいなそういうのを、短歌特有の節回しというか」穂村弘
「“人生日記”みたいなシステムを採用したために、短歌人口は増えた。現代詩人口がなぜ少ないかと言えば、それは選ばれた技術とモチーフを持った人がやるものってイメージがやっぱりあるからで(略)新聞の短歌欄なんてまさにそうで、孫が笑ったとか、入れ歯が不調とか、そういう世界。」穂村弘
「短歌だって本来は「詠み人知らず」がいっぱいあって(略)近代以降の“人生日記“のシステムだと結局、」穂村弘
「青春と恋愛と死、どれもとくへな心の状態だよね。でも、それがだんだん人生の方に負けていく。」穂村弘
「青春のまぼろしが失われたあと、どうやって人生の重力みたいなものを言葉に乗せるのか、僕はずっとわからないままきている。“人生日記”を拒否する場合、小説ならフィクションでいいと(略)そうやって力を絞ったフィクションも、「爪が折れた」「くしゃみが出そうで出ない」みたいなささやかさに凝縮された人生に負けてしまう」穂村弘
「つまり、言葉は、例えば音楽のように完全に生身の重力からじゆになれないということなんだよね」穂村弘
「短歌には、神さまがいるって感じは確かにありますよね」最果タヒ
「韻文は最初の読者が神そまなんだよね。雨乞いとか国ぼめとか挽歌とか」穂村弘
「詩は、神さまはどうせそんなもの書かないから、今書けなくても明日書けばいいって思える。」最果タヒ
この本自体、確かリアルタイムで買ったのではなく、翌々年ぐらいに手に入れたのじゃなかったかな。
今、改めて読むと、ほんと刺激的。
自分が短歌や俳句、川柳をそれぞれ各教室で習ったり、
新聞の投稿欄に、毎月投稿しているからでしょうね。
さて、某地方新聞への詩を何度も書き直して、完成。
昨日、投函しました。
『ココア共和国』への今月作品。
こちらも、落選作「大幅に書き直して、3倍ぐらい付け足して、
それをさらに半分ぐらいに縮めて、完成。
同じく、昨日、投稿しました。
『ユリイカ』も書き上げ、駅を降りたら、投函予定です。
残ったのは、『びーぐる』の投稿欄の2月分だけ。
新作を出すには、あまり日にちがないか。