僕の敬愛する詩人の一人に、
小池昌代さんがいる。
僕の個人的な分類では、同じ女性詩人の木坂涼さんと同じ、爽やかで瑞々しい感覚表現の詩人として、勝手にカテゴライズしている。
木坂涼さんとの違いは、木坂さんが見事なアナロジーを捻り出して来られる直球派だとしたら、
小池さんは、やや分かりにくい変化球投手なのかな。
特に、小池さんは、詩のテーマに自然現象が間接的に関わってきて、
その深化と描写が上手く、さらに時間経過を含んでいることが多い。
良質な詩の解説が多い『詩のレッスン』でも紹介されている次の「プール」という詩など、その典型だ。
冒頭の一連だけ分析紹介してみる。
* * *
「プール」
プールの水面の高さまで
空気がおりてきて
十一月になった
一時間目が体育なのに
体操着のえりもとが
べったり汚れているゆめを見る
学校では わたしはいつもひとりでいる
木の机やいすが すこし小さいとおもう
前の男の子がふりかえって
わたし ではなく べつの子を呼ぶ
「ノート 貸して」と言っている
だれもがもう水のことを忘れてしまった
急性骨髄炎で死んだ音楽部の先輩が
水からあがってくるまで待っていたいけれど
視線をはずすと
すぐ 夜になってしまう夕ぐれ
水底には
テニスボールなどがいくつかころがっていて
夏になるまで
気づいてもらえない
* * *
この冒頭の簡潔な、たった三行で、魅了されてしまう。
「空気」と「水面」の描写だけで、日常の自然風景でありながら、
どこか異界感が漂う不穏さもある。
しかも「十一月」の持つ時間性と季節感。
書かれていない物語性がある。
また、
この間、若い人に、詩の書き方を説明していた際に、
よく言われる「散文は歩行、詩は舞踏(ダンス)」を説明したことで言えば、
小池さんの詩は、舞踏のジャンプが多い。
前のレンズと無関係な一行が唐突に差し込まれ、ドキリとさせられる。
例えば、この詩でも、
4連目の「だれもがもう水のことを忘れてしまった」の唐突感に、
5連目の「急性骨髄炎で死んだ音楽部の先輩が」の引き込まれ感は凄い。
僕にはまだ書けない領域。
でも、なんとかその感性・感覚を分析して、いつか手に入れたいもの。
そして、この詩には自分の気持ちを吐き出すだけの詩とは違う物語性がある。
だからでしょうか、
小池昌代さんは、小説家としても、活躍中です。
僕はまだまだ勉強です。