雑誌『ユリイカ』五月号の投稿欄「今月の作品」から和合亮一さんの言葉。
「散文詩の投稿が目立つが、散文体にする意味が明確に見えて来なければ「言葉による彫刻」として受けとめられない。
詩壇において例えば粕谷栄市氏など優れた書き手に魅了されていて散文詩を否定するわけでは毛頭ない。
しかしまずは短編小説と散文詩の違いを分らせて欲しい。
散文にしても行分けにしても、尖る精神の彫刻刀にて詩の芯を掘り当てようとしなければ、凄みは宿らない。」
この言葉を読んでから、平日ほとんどない自由時間を、創作活動以外では、
「散文詩」。
このキーワードで考え直している。
僕の場合、もちろん、「散文詩」とは何か、だけでなく、
そこに散文、つまり、「小説」とは何かが、コインの表裏のように貼り付いている。
和合さんの言うように、「言葉による彫刻刀」を振るうのは、
小説でも同じはずだからだ。
ただページ数、300頁の小説はあり得ても、同数の1篇の詩は、
詩として絶対に認められないように、
詩は枚数制限のある「散文」にならざるを得まい。
それ故に、「彫刻刀」で、散文よりは削らなくてはいけないのだ。
(小説だから、と言って、無尽蔵に拡散も出来ないだろう。)
僕の詩は、基本、拡散思考で生まれる。
ところが、散文詩は削らなくてはならないものだ、とする。
矛盾だね。
また、そう言った違いはあるものの、なんとなく散文詩を突き詰めることで、
小説における純文学的な文体の、自分流の新たな創出に繋がるんじゃないか。
そんな予感が強くしてならない。
つまり、「いい散文詩」を書くことを目指すことが、
その経験、その煩悶と格闘のプロセスが必ずや「いい純文学系小説」を書くことに繋がるような気がするのです。
ちょうど僕の文学仲間であり、詩友でもあるジューリさんが、
去年、ばんばん「ユリイカ」に投稿して、毎月のように入選していたように。
だって、彼は小説で早稲田大学新人賞の最終選考まで、残ってたり、
他の大手出版社の純文学系小説賞で、3次選考、4次選考まで残ったりする猛者ですからね。
(彼の詩風は、散文詩じゃないけれど。)
散文詩。
凝り性で屁理屈屋の僕には、最適な論題です。
この話の続きは、分かった段階で書かせてもらいます。