いきなりですが、童謡を書くことにしました。
7/1〆切の兵庫県たつの市主催の「三木露風賞 新しい童謡コンクール」に1篇、出すために。
どうでしょうか。
詩を書くんだし、童話も書くんだから、童謡も書けて当たり前でしょう、と。
皆さんは、お思いかもしれませんが、
今まで、童話の中で、成り行き上、童謡を数回書いたことはありますが、
それを、現代詩が書けるようになってから、やったことは一度もありません。
( 何しろ、「童謡」とワープロで打つと、「動揺」しか出てきませんでしたから。笑 )
僕は自分が心が穢れた大人だから、そんな清浄なもの、無理、と思ってきました。
でも、童謡を書くことで、幼年童話も前よりちゃんと恥ずかしがらずに書けるかな、と思い直し、
また、現代詩においても、いい影響がありそうだと考え直しました。
凝り性の僕なので、単に書くのではなく、
そもそも何を持って「童謡」というのか、研究・調査をしました。
『童謡の百年』(井手口彰典著・筑摩書房)によると、
「童謡はある時から「日本人の心のふるさと」になった。」
「取捨選択された(それゆえに理想的な)歌の世界と現実の過去とは、必ずしも一致しません。(略)たとえ現実の過去とは一致しないにせよ、理想郷としての「ふるさと」を思い描き、また共に歌うことを通じてその世界観を周囲と確認し合うような営み自体は、決して責められるべきではありません。」
とあって、作者の説では、子どもの歌には、三つの指向性が存在し、
A、実用性……唱歌や軍国的な唱歌、戦時童謡
B、芸術性……大正童謡(曲なしも含む)、戦後の「子どもの歌」
C、大衆性……レコード童謡、主題歌・アニソン、ちびっこソング
されに、それらA~Cを、’60年代ころを下限とされて以後は弾くフィルターを通して、選別される。
その結果、残ったのが、「日本人の心のふるさと」イメージ的観点からの【童謡・唱歌】なんだ、と。
読んで、僕も実感としてそうなんだ、と同意します。
何でも子どもの振りして優しくお花畑イメージを書けば、童謡になるんだ、なんて、
失礼なことを僕はできません。
つまり、普段、現代詩を自分が作るときに基本、入れている《異化》現象をほぼ使えないわけで、
これはこれで、すごく勉強になるんじゃないか、と思っています。
ある意味、思いっきり〈近代詩〉側に寄るので、表現の幅が広がるかな、と。
他にも、童謡関係の本を数冊並行読みしています。
もちろん、三木露風さんの「赤とんぼ」などは読みました。
それは応募するなら最低の礼儀か、と。
読むと、昔の近代詩詩人たちの感性を勉強できます。
そこで、同じ詩を書く立場ですから、同然親和的に〈見えてくるもの〉もあります。
ところで、
それとは別に、昨日書いたように、
明石市文芸祭の、詩部門に出すついでに応募する、たとえば童話部門に数年前の新美南吉童話賞の落選作品を、土曜日は改稿したりしていました。
せっかく、書いたんだから、どこかで、あれらにも陽の目を浴びさせてやりたいですから。