上田岳弘『私の恋人』の人称と文体の分析 | 読書と、現代詩・小説創作、猫を愛する人たちへ送る。(32分の1の毎日の努力を綴る)

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文学創作と大学通信等を書いています。【やりたい夢(小説家)がある1/2→夢を叶える努力をする1/4→完成作を応募(挑戦)する1/8→落選する1/16→落選しても諦めず・また努力・挑戦する1/32】(=日々、この1/32の努力を綴るブログです。笑)

昨日に引き続き、

上田岳弘さんの『私の恋人』の分析読みの結果を報告します。


⑴ その文体は純粋な三人称よりも、読み手と作者の間に、もう一人謎の語り手がいるような感覚だ。(それは小説というよりも、古い物語的な「語り口」だろうか? )

    ただ、それ故に、一人称的に《実感を伴う真面目な描写》だと、

すこぶる嘘っぽくなる所を謎の語り手が距離感を保って分析することで、

《擬似客観性》とでもいうべきものを与えられる気がする。

   これは、一人称でもすべての「語り口」で凄く大事かもしれない。


⑵ じゃあ、実感を伴ったり、小説的な「一体感」を与えられないのかと言えば、

例えば、地の文ではこう叙述される。


「ハインリヒ・ケプラーだった時の私も、自分が過去の人物の二人目、つまり誰かの生まれ変わりであるという実感を確かに持っていた。もちろん、それが通常あり得ない事象であることを客観的に認識している。自分が精神病を抱えている可能性を心配した時期もあった。三人目ともなる井上由祐とは違い、ハインリヒ・ケプラーが生まれ変わりを経験したのは初めてのことだったし、それも前回の生は10万年も前の原始人だったのだ」p28 


ここで言う「あり得ないこと」というズレの利用や、

「初めてのことだったし」「原始人だったのだ」と因果プロットの流れで、

読み手に実感を与え、納得させている。

これは論理的で評論的な語り口だ。

ですます調の敬体では不可能だな。

挿入され、途中で中継している「自分」という人称が、

効果的で、まるで中島敦の『山月記』を思わせる。


こんな風にマニアックに読解しています。