上田岳弘『私の恋人』の人称と文体の分析 | 読書と、現代詩・小説創作、物語と猫を愛する人たちへ送る部屋

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小説や詩の創作、猫また大学通信を書いています。Twitterは、atlan(筆名:竹之内稔)@atlan83837218 放送大学在学中。「第8回新しい詩の声」優秀賞を受賞。
 京都芸術大学の通信洋画&文芸コース卒業/慶應義塾大学通信卒業/東洋大通信卒業/放送大大学院の修士全科生修了。

昨日に引き続き、

上田岳弘さんの『私の恋人』の分析読みの結果を報告します。


⑴ その文体は純粋な三人称よりも、読み手と作者の間に、もう一人謎の語り手がいるような感覚だ。(それは小説というよりも、古い物語的な「語り口」だろうか? )

    ただ、それ故に、一人称的に《実感を伴う真面目な描写》だと、

すこぶる嘘っぽくなる所を謎の語り手が距離感を保って分析することで、

《擬似客観性》とでもいうべきものを与えられる気がする。

   これは、一人称でもすべての「語り口」で凄く大事かもしれない。


⑵ じゃあ、実感を伴ったり、小説的な「一体感」を与えられないのかと言えば、

例えば、地の文ではこう叙述される。


「ハインリヒ・ケプラーだった時の私も、自分が過去の人物の二人目、つまり誰かの生まれ変わりであるという実感を確かに持っていた。もちろん、それが通常あり得ない事象であることを客観的に認識している。自分が精神病を抱えている可能性を心配した時期もあった。三人目ともなる井上由祐とは違い、ハインリヒ・ケプラーが生まれ変わりを経験したのは初めてのことだったし、それも前回の生は10万年も前の原始人だったのだ」p28 


ここで言う「あり得ないこと」というズレの利用や、

「初めてのことだったし」「原始人だったのだ」と因果プロットの流れで、

読み手に実感を与え、納得させている。

これは論理的で評論的な語り口だ。

ですます調の敬体では不可能だな。

挿入され、途中で中継している「自分」という人称が、

効果的で、まるで中島敦の『山月記』を思わせる。


こんな風にマニアックに読解しています。