昨日のブログの続きです。
今日は具体的に分析してみせます。
その分、かなりマニアックかつアカデミックな単語が、行き交いますが御容赦下さい。
十二国記シリーズの中では、最新巻になる『丕緒(ひしょ)の鳥』(新潮文庫)から主上と呼ばれる小野不由美さんの文を引用します。
・「堂を出て行く青江の背が寂しげだった。青江は蕭蘭の徒弟だった。蕭蘭が姿を消して工手から羅人に取り立てられたが、期を同じくして丕緒は陶鵲の思案をやめた。陶鵲は射儀にのみ使用するものだが、常日頃から工夫をしていなければ急の儀式に間に合わない。にもかかわらず、青江が羅人になってからというもの、丕緒はただの一つも陶鵲を作っていなかった。青江がそれを己のせいだと思っていることは理解していた。青江の腕に不足があるから、丕緒は陶器を作る気になれないのだ、と」p27
小説というのは、1行書くと、その行を既成事実化しながら、
その書かれた内容を因果関係の繋がりの中にパーツとして、埋め込んで行きます。
( これをプロットと呼びます。演劇関係で使う構成を意味するプロットとは用法が全く違います。)
・「寂しげだった」の次は、全体がサブ・エピソードとして語られ、そのプロット・因果関係を「から、~ないのだ、と」結ぶ。
・同時に、「一つも作っていなかった」と事実や情報をプロットのと違う流れに挟み、読み手に新情報として提供する。
・「羅さんの」「陶鵲」と新奇な言葉がこの本文以前から過去に事実としてあって、
読み手を含めて、当然知っている常識的で既存のものとして提示される。
そのベースが基にあって、そうした新奇さがリアリティを醸し出す。
・一見、これは単なる説明文に見えるが、そうではない。背景や事情(「取り立てられた」「やめた」)を小さなプロットとして因果関係情報として提示して、シーンや会話を盛り上げ、より感情移入しやすいように語っているのだ
リアリティを増すように過去の情報を既成事実化して(「急の儀式」「作っていなかった」)組み合わせているので、そこに感覚や記憶(「己のせいだと」)を絡ませる。
その際、「やめた」とシンプルな事実報告の積み重ねを少しずつ置く。
ここで、大事なことは、
よくマンガの原作で言われるキャラとしてのプロフィール的で表面的な性格・習慣を決めたから、小説が展開できるのではないこと。
むしろ、
その人物の習慣や性格の背景にある社会構造や位置、人間関係を情報として、
読み手に伝えて行かなければ、
本当の意味で、そのキャラクターは読み手の頭の中で「生きて来ない」と
僕は考えております。
小説において大事なことは、ストーリーを原稿用紙上に展開させることではなく、
読み手の頭の中で、いかに再現させるかだと思います。