正月は、三が日で終わるものだと思っていた。
しかし講義を聞きながら、それはかなり急いだ理解だったのだと気づいた。
正月は、一日で完結する行事ではない。
迎え、過ごし、送り、そして分かち合う。
時間の中で、少しずつ形を変えながら続いていく行事である。
一月は「睦月(むつき)」と呼ばれる。
睦み合う、つまり人と人が心を寄せ合う月である。
正月は、個人で完結する行事ではなかった。
家族や集落、共同体の中で、福を分かち合い、関係を結び直す時間だった。
かつてのお正月が、人の気配に満ちていた理由が、少しわかった気がした。
正月の途中、一月七日に人日の節句がある。
この日に食べるのが、七草がゆである。
正月料理で疲れた胃腸を休めるため、と説明されることが多いが、
本来は年の初めに若菜を食べ、一年の無病息災を願う行為だった。
祝うだけで終わらせない。
いったん整えてから、次へ進む。
正月には、そういう「間(ま)」が用意されていた。
正月の締めくくりは、十五日の小正月である。
農民の正月とも呼ばれ、ここで一年の豊作を祈る。
興味深かったのは、「祈る」だけではなく「予祝」という考え方だった。
先に、豊作になった前提で祝ってしまう。
未来を、すでに起きたものとして扱う。
まゆだまを神棚に供え、竹や柳の枝先を稲穂に見立てて、家や門前に吊るす。
まだ何も実っていない季節に、すでに実った姿を飾る。
行事とは、願いを先取りするための知恵でもあった。
松の内が明けると、左義長(どんど焼き)が行われる。
門松や注連縄、書き初めなどを火にくべ、歳神様を送り出す行事である。
迎えることと、送ること。
この二つは、必ず対になっている。
火で焼いた餅を食べると一年間無病息災で過ごせる、という言い伝えも、
神様の力を体に取り込む、という感覚から生まれたのだろう。
お年玉は、お金のことだと思っていた。
しかし本来は、歳神様の「たましい」を分け与える行為だった。
歳神様の力が宿った鏡餅を分ける。
福を、独り占めしない。
正月は、受け取るだけの行事ではない。
分け合うことで、福を循環させる時間だった。
正月は、ハレの日である。
(その意味については①に書いたとおりだ。)
日常が続く中で、人はあえて装いを変え、振る舞いを変え、祝う。
そうやって、次の一年へ向かう力を取り戻す。
私は、正月を「短縮したい行事」だと思い始めていた![]()
しかしそれは、正月が担っていた役割を知らなかったからだ。
迎え、整え、祝って、送り、分ける。
そのすべてを省けば、正月はただの休日になる。
今年の私は、正月を急ぎすぎていた。
だからこれは、来年の私へのメモである。
正月は、急がなくていい。
むしろ、時間をかけるためにある。
本日もお読みいただきありがとうございました。
※来年の自分に残すため、ChatGPTと対話しながら整理した。
