パパが女(アリッサ)になったとき LA発LGBTトランスジェンダー家族日記 -14ページ目

パパが女(アリッサ)になったとき LA発LGBTトランスジェンダー家族日記

「タイランドのトムクルーズ」とママ友からもてはやされたイケメンパパがある日突然「MTF(トランスジェンダー女性)である」とカミングアウト。苦労や苦悩もあったけど、私たち家族は大丈夫。LAから体験記を発信してきます。

 
Hello from LA. 
 
 
今は日曜日の午後10時。最近、寒い日が続いてます。
 
 

 

雪女ってこんな感じかな。寒い日のアリッサ。

 

 

 

 

寒い日はスンドゥブに限るぜ。

 

 

 

 

前回、「パートナーがカミングアウトした直後のわたしの心境を書く」と言いましたが 、撤回。その前にどうしても書き記しておきたいことがあります。

 

 

英語には “Skelton in the closet”という表現があります。「クローゼットの中のガイコツ」。



「他人に知られたくない内輪の秘密」という意味ですね。

 

 

わたしたちのクローゼットの中のガイコツは、ずばりカミングアウト前のアリッサの買い物依存症。



詳細を書くのはあまりにもつらいので、概要だけさらっと書きます。

 

 

以前のブログで、過去のパートナーの浪費癖について触れましたが、あれは 氷山の一角にすぎませんでした。



あの人の浪費癖について書いた過去のブログ

 

 

あの人(アリッサになる前のエイタス)は、心のなかの暗くて深い穴を埋めるように、わたしの知らぬ間に買い物をし続けて、クレジットカードの支払い地獄に陥っていました。

 

 

カミングアウトの1年前の2015年、1人で抱えこむことができなくなったあの人は、多額の借金があることをわたしに告げました。

 

 

わたしたち2人ではどうすることもできない額だったので、タイに住む(裕福な)義理の両親に相談して、彼らに借金返済を手伝ってもらいました。

 

 

「本は買わずに図書館で」、「週末のお出かけはお弁当を持って公園へ」、「子供が小さいうちは、服は買わずに、お下がりかガレージセール」などなど、将来のために貯金をしようと、ささやかな努力をしていたわたしは、あの人に失望しました。



 

でも、この一件以来、あの人はクレジットカードで買い物するのを一切やめて、あの人なりの努力をしてました。

 

 


改心して、努力してるあの人をみて、「義理の両親のおかげで、問題は解決したわけだし、今後ふたりで協力して、ゼロからやり直せばよい」とあの人を許し、前向きに生きていこうと決めたのです。

 

あの人が埋めようとしていた心なかの深い穴は、自分の「性」に対する不透明感だったのかもしれない。

 

 


次回はパートナーがカミングアウトした直後のわたしの心境について書きます。

 

 

 

 

 

 

スンドゥブの後はアイスクリームで締めくくる。
 
 
 

 

Good moning from LA.
 
 
 
 
今日はずばり、名前変更について。
 
 
 
 

瞳はダイアモンド。大きくてつぶらな目のなかに星がキラキラしてますね。美しい人。

 

 

 

アリッサの男性だったときの名前は「エイタス」”Athas”と言います。

 

 

英語では”progress”、日本語だったら「躍進」という意味。なんて素敵な名前。タイでも珍しい名前。アメリカではまったく聞かない名前。

 

 

ラブラブの頃はよくあの唄を文字って、「世界にひとつだけのエイタス」って、歌ってました。

 

愛とエイタス。

 

 

 

「人も羨む仲がいつも自慢のふたり」で、「あなたとならどこまでもいけるつもり」ってお互い信じてたのに、「突然の嵐みたいに音を立てて崩れて」いっちゃった。

 

 

家族にカミングアウトしたとき、彼女はすでにセラピストと相談し、法的に女性名に変えることを決意していたようです。ただ、わたしが混乱しないよう、「決意を伝える」時期を待っていた。「名前変えます」宣言をしたのは、カミングアウトの数週間後でした。

 

 

セラピストのケイシーからは、「周囲の人が『彼』から『彼女』へと、できるだけ早く順応できるように、名前を女性名に変えるのは必須」、とアドバイスされたそうです。

 

 

ケイシーのアドバイス、今考えると納得。その通り。でも、わたしはパートナーが「女性名を一緒に考えて」と言ってきたとき、即答で断りました。

 

 

「自分で決めて」と氷の女王みたいに冷たく言い放ちました。

 

 

イヤだったんです。名前を変えたらエイタスがいなくなってしまうようで。

 

義理の母はエイタスという名前をタイの占いをもとに選びました。

 

パートナーも母親と同じタイ式の占いにをもとに、名前を選びました。英語、日本語、タイ語の3カ国語で対応できる名前をいくつか選んでもらい、そのなかから、一番気に入った名前を決めたそうです。

 

 

法的手続きは意外と簡単で、市の裁判所に名前と性変更の書類を提出し、手数料(約4万円!!)を支払い、指定された日に裁判所に出向き、承認を受ける。本人もびっくりするほどの簡単なプロセスでした。

 

パスポート、運転免許証、ソーシャルセキュリティーカードなどの名前変更は各機関に問い合わせ、それぞれ進めていきました。

 

 

出生証明書に関しては、パートナーが生まれたオハイオ州では、トランスジェンダーの名前変更がまだ認められていません。なので、この書類に限り、名前はエイタスのまま。ただ、これもカリフォルニア州で申請すれば、変更は可能だそうです。

 

 

こうしてエイタスはいなくなり、アリッサという女性が誕生しました。

 

娘たちはアリッサの語尾を取り「リッサ」とか「リス」と呼びます。

 

 

 

わたしの気持ちは常に振り子のように揺れてました。「優しくするもんか」という反抗心。それと同時に「パートナーの立場になったら、いつまでも昔の男性名で呼ばれるのはつらいだろう」という相手を思いやる理性。

 

 

結局、ひねくれもののわたしは、エイタスの「えい」を取り、「えいこ」という

日本語の女性名をつけて、パートナーを「えいこさん」、「えいこちゃん」と呼ぶことにしました。

 

 

一言も相談せずに決めた日本語名をアリッサは、とても喜んで受け入れました。

 

 

ブログでは混乱を避けるため、アリッサという名前を常に使っていますが、実はいまだに「えいこちゃん」と呼んでます。彼女に腹を立ててるときとかは、意図的にエイタスと呼んでしまうこともあります(これはよくないね)。

 

 

ちゃんちゃらおかしい、わたしの密かな反乱。

 

 

 

 

 

アリッサがエイタスだった頃。子供たちと一緒によく工作してくれました。辛抱強くて、手先が器用。やりたがりだけど、すぐ投げ出すわたしとは大違いで、娘たちのお友達からも慕われてた。

 

 

 

 

 

父親との絆が強かったから、ふたりはいつもアリッサをサポート。わたしが無理なのときは、彼女たちがアリッサを優しく包み込む。
 
明日はわたくしこと高山愛の、アリッサカミングアウトの頃の気持ちを書きます。しんどかったなあ、あの頃。
 

 

Hello from LA.
 
 
ただ今、金曜の夜10時。金曜日は朝から午後2時までスパでマッサージの仕事をして、娘たちのお迎え。夕方はジムでストレッチのクラスを教えてます。その後、夕食の支度、子供風呂、ごはん、皿洗い、犬の散歩。と、じゃんじゃんやるべきことを片付けて、やっと自由時間、OMG.
 
 
ブログを毎日更新するのって、思った以上に大変な作業ですね。睡魔に負けそうだけど、負けるもんか。
 
 
 
 
 
 

次女が描いたアリッサの絵。こんなにかわいく描いてくれたのね。アリッサもわたしも感動でこっそり泣く。

次女も長女もアリッサ大好き。わたしのことは好きかしら?

 

 

 

 

 

レゴランドにて。アリッサと次女。この日のアリッサを絵に描いたんだ。
 
 
今回は、パパになってからのアリッサの女の性への目覚めについて。アリッサから聞いたこと、その通りに書きます。
 
 

2012年。当時、 長女5歳、次女3歳。娘たちの手がかからなくなり、体を鍛えるため、職場のオフィスビルディング内のジムでヨガ、キックボクシング、スピンのクラスを取りはじめる。

 

はじめて取ったヨガのクラスのインストラクタ−女性のブルーのネイルをとても美しいと感じる。インストラクタ−に素直に感想を伝えると、「あなたも塗ってみたらいいのに」とすすめられる。

 

ためらいを感じつつも、インターネットで調べると、セレブや運動選手には男性でもネイルをする人が多いと知り、興味を持つ。

 

 

ヨガにはまり、2年後には職場の近くにあるヨガ専門のスタジオに通うようになる。新しいタイプのヨガに挑戦するが、逆立ちすることが多く、自分が今まで履いていた男性用のショートパンツでは、パンツがめくれてしまい、どうにも動きにくい 。

 

友人女性からレギンズをはくようにすすめられ、一緒にlululemonの店に行き、気に入ったレギンズを数枚買う。

 

クラスにはレギンズをはく男性もちらほら。ただ、みなレギンズの上にショーツを履いており、レギンズオンリーはインストラクタ−とアリッサのみ。

 

 

レギンズを履いた感想は「気持ちよすぎ」。自分の中にぼんやり女を感じ、幼少時代のこと、大学時代の変装のことを思い出す。

 

 

それ以来、ヨガのアウトフィットは必ずレギンズ。最初は黒やグレーを選んでいたが、自分の気持ちに正直になることを決め、パステルカラーのかわいらしい色とか花柄を選ぶように。この頃から妻(わたし)に内緒で女性用のドレスや靴、下着をオンラインで購入しはじめる。

 

 

「女になりたい」という気持ちが次第に強くなり、女装願望のある男性を対象に、メークオーバーして写真を撮る専門の会社をネットで探しだし、早速体験。

 

 

その際、メークアップアーティストから「あなたはクロスドレッサーなの?それともトランスジェンダーなの?」と聞かれたことがきっかけで、自分の心と体について真剣に考えるようになる。

 

 

この、メークアップアーティストからの質問がきっかけで、トランスジェンダー専門のセラピストを本気で探し始める。

 

 

「この人だ」と思う専門のセラピストを見つけ出し、セラピーに通いだしたのは2015年の年末。セラピストのケイシーは、もと同僚の恋人(レズビアンカップルで、この同僚はアリッサと同じ会社で仕事をしていたとき、会社のLGBT groupに所属していた)だと後、判明。

 

 

2015年に公開されたトランスジェンダーの女性を描いた「Danish Girls」(邦題「リリーのすべて」)という映画を見て主人公に強く共感。

https://youtu.be/RTfESNVoGdI

 

さらにケイシーとセラピーを進めていくうちに、自分は間違った体で生まれたこと、自分は女性であることに気付く。

 

 

 

妻として、常に側にいたけど、アリッサはわたしに相談でず、わたしは何も気付くことができませんでした。

 

 

 

アリッサが買ってくれた車用Defuser。こんなの欲しかったの。女になってから、プレゼント選びのセンスに磨きがかかりました。

 

 

ESS社の "good karma" というオイルがお気に入り。落ち込んだときとか悲しいとき、元気をくれる。
Roman chamomile, lemon, sweet orange, rose absolute, clove bud, ylang ylang, French Lavender, Himalayan cedarwood, super lavandin, and organic sandalwoodがブレンドされてます。
 
さて、明日はアリッサの名前について。アリッサの昔の名前はXXXXでした。
 
 

 

Hello from LA
 
 
 

夫がカミングアウトし、アリッサと名前を変えた直後から約2年の間、わたしはアリッサと向き合い、話し合う事を避けていました。

 

彼女の心のなかの変化について、セラピストとのやりとり、子供たちをどうやって守っていくか、子供たちの将来、女性になることでかかる費用のこと、ホルモン剤を取りつづけることのリスク、彼女の夢や目標、バンコクに住む義理の両親のこと。

 

 

話し合わなければいけないことは山ほどあるのに。話す機会はたくさんあったのに。

 

 

それを避けてきたのはなぜなのか。

 

 

現実を受け止めたくなかったから?

 

 

周囲の目に怯えながら生きることに精一杯で、心の余裕がなかったから?

 

 

自分の負けを認めることになるから?

 

 

 

いろいろ考えて やっと気付きました。話し合うということは、認めて受け入れること。

 

認めて受け入れることで、約20年間一緒にいた夫であり、娘たちの父親だった「彼」がどこかに完全に消え去ってしまうのが怖かった。悲しいし、くやしかった。受け入れて認めたら、「彼」に「もう行っていいよ、いってらっしゃい」って言ってるみたいで。

 

 

「彼」は、すでに消えてしまって、もうそこにいないのに。残像にしがみついて、「行かないで」って地団駄ふんで、話し合いを避けるという形で反抗してたんですね。悲しい愚か者。

 

 

今は悲しい愚か者ではなく、強い賢者に大変身したので、アリッサととことん話し合える自信があります。

 

 

ということで、今日の本題。

 

パートナーのアリッサがどうやって、「女の性」に目覚めていったか。



彼女から聞いた通りに書きます。カミングアウトの日の夜「ヨガで自分の本当の姿に目覚めた」と語ったアリッサでしたが、本当はずっと昔に「あれっ」と思う出来事が何件かあったそうです。

 

 

まず幼少期からわたしに出会う22歳の間までの記憶。

 
幼少期のアリッサ。次女が「タラと同じ顔!」とびっくり仰天するほど、長女に似てます。
 


 


一番古い記憶は小学校低学年のとき。お友達の女の子が学校に持ってきたストロベリーショートケーキのフィギュアーがどうしてもほしくなる。




こっそり自宅に持ち帰り、母親に見付かって厳しく叱られたのち、翌日、その子にあやまって返した記憶。

 


女の子のおもちゃが無性にほしくなったのはそのときだけ。

 

 

 

ストロベリーショートケーキ。

 

 

次は同じく小学校低学年のとき。母親が間違って買って来た女の子用の下着が気に入り、何度か履いたこと。



アリッサはこの一件をはっきりと記憶しているのですが、後ほど、その話をすると母親は「そんなことは絶対なかった」と否定したそう。

 


さらに、中学生になり、両親の都合で1人で親戚のおばさん宅に泊まったとき。ベッドの下にパンティーストッキングを発見し、衝動にかられ履いてみる。ゾクゾクするほどの快感を覚える。

 

 


そして大学時代。親元を離れ、1人暮らしをしていたとき。かつらと化粧品を購入、自室で変装してみる。気持ちがよかったけど、「悪いことをしている」「自分は頭がおかしい」という罪悪感でいっぱいになり、すぐかつらと化粧品を捨てる。アリッサが18歳のとき。

 


この18歳の変装事件から6年前にヨガをはじめるまで、自分のなかに女性を感じたことはなかったそうです。話してくれてありがとう。知ってよかった。

 

 

 

次回は父親になってから感じた、彼のなかの女の性について書きます。

 

 

Hello from LA
 
 
 
元旦の朝、愛犬ルナを散歩していたら、たまに会って立ち話しをする犬ともの日本人女性、Mさんに会いました。
 
 
いつものように、よもや話をした後、別れ際に、「ねえ、愛さん、いつも夜にルナちゃん散歩している若い女性は愛さんの妹さん?」と聞かれました。
 
妹に見えるのねー。ちょっと前には英語の人に "Is that your daugter?" (娘さんですか?)って聞かれたことあるので、免疫ついてます。間違えられるなら、妹のほうがましか。
 
ちょっと前だったら、「親戚です」ってごまかしてたけど、今は平気。きちんと事情を説明しました。
 
 
アリッサ、お肌がきれいで、ピチピチして美しいから、年齢よりずっと若くみられるようです。
 
きれいなパートナーと生活してると、とてもよい刺激になります。もう完全負けてるけど、これ以上負けないように、ちょっとでも追いつくように、日々努力するようになったもんね。でもね、アリッサの使ってる基礎化粧品も、メークアップ小道具も高価なのばっかりなので、わたしたちの美の差はどんどん開いていくのです。それでもいいや。アリッサ、もっともっと美しくなって世界に羽ばたいてね。
 
 

実際はもうちょっとぽっちゃりだけど、画像の加工も得意。大学生みたい。かわいいね、この娘。

 

 

さてさて、今日は娘たちの誕生で変わっていったわたしたち夫婦の関係について。

 

 

結婚7年後の2007年に長女のタラ(ミドルネームです)を、そして2009年には次女のニーシャを授かりました。

 

「そろそろ子供がほしいね」とふたりで話しあい、いわゆる妊活をはじめたとき、ふたりの意見は「女の子がほしい」という意見でぴったり一致しました。

 

優しくおだやかな彼がよい父親になることに確信を持っていましたが、夫は男らしさにかけていたので、「私たち夫婦には女の子のほうが育てやすいのでは?」という気持ちがわたしのなかに強くありました。

 

一方、夫は純粋に女の子が欲しいと思っていたようです。

 

 

産み分けに関する情報収集をして、集めた情報をマニュアル通り実践し、その成果か否か、わたしたちはかわいらしい女の子ふたりに恵まれました。

 

 

夫は娘たちを愛してやまない 、とてもよい父親でした。お風呂から寝かしつけまで乳幼児期は娘たちの世話をよくしてくれ、成長してからも娘たちとの時間を大切にし、育児を心から楽しんでいました。過保護すぎるところもありましたが、娘たちがはめを外しても叱ることはせず、娘たちの言い分を忍耐強く最後まできちんと聞いてあげていました。

 

 

 

 娘たちも父親が大好きで「ダディ、ダディ」と言って父親にべったり。わたしは 仕事をしていたので、朝、子供たちの学校までの運転を夫に頼むことが多かったのですが、車を止めた後、校門まで父親と歩く時間をふたりとも、とても楽しみにしいたようです。娘の友人たちやママ友からも羨まれるような、娘たちにとっても私にとっても自慢の父親、自慢の夫でした。

 

 

家族としては超円満。でも、夫婦仲は次女を出産したころから、徐々にさめていきました。

 

 

娘たちを出産する前は、わたしが太陽で彼が地球。わたしを中心に彼がまわっていて、彼はわたしの我がままをすべて受け入れてくれていました。出産後は娘たちに太陽の座を奪われた感じ?これはどの家庭でもありがちなことですよね。

 

 

長女を妊娠中に豆柴を飼い始めたのですが、彼のなかでの愛情の割合が「何がなんでも愛がだんとつ一位」から、「娘たちが一番、豆柴のモモが2番、愛は最後」と変化していったのを感じました。(豆柴のモモがとてもかわいくていい子だったので、わたしとしては文句なし)

 

セックスの回数もどんどん減っていきましたが、私は幼い娘たちの世話に追われて疲れきっていたので、セックスレス化については、特に不満を感じませんでした。ロマンスがなくなり、夫婦2人の関係が友達化していっても、「家族が仲良しならそれでいいんじゃん」と気にしてませんでした。

 

 

 

 

長女が産まれたばかりの頃、体ふきよくしてくれました。丁寧すぎて、時間かけすぎて、「風邪引くんじゃないか」って、わたしはハラハラ。(「後ろに心霊が」と思ったら、写真を撮ってるわたしが写ってた。こわっ。)

 

 

 

 

 

次女のときもまったく同じ方法で体ふき。マニュアル本を見ながら真剣勝負。

 

 

 

 

 

長女が6歳のときに描いた。涙がしみるぜ。この絵にはたくさんの愛が詰まってます。

 

 

次回はね、書くのがつらいけど、アリッサのなかに芽生えていく「女の性」について書いていきます。

アリッサにインタビューした内容を、多分涙しながら書くので、ぜひ読んでください。

 

 

 

Hello from LA 🌈
 
LAは今、元旦の午後8時40分。改めて、あけましておめでとうございます。
 
 
 
パートナーのアリッサがトランスジェンダー女性(MTF) とカミングアウトしてから、あまりパーティーに参加しなくなりました。お呼ばれしても、言い訳つくって断ってた。「誰が知ってるのか」とか「知らない人にはどうやってアリッサを紹介しようか」と考えはじめると足がすくんでしまって。
 
 
これからはじゃんじゃん、家族でパーティーに参加しようと思ってます。だって、もう周囲の反応とか怖くないし、恥ずかしくないし。
 
 
ということで、元旦の今日はわたしのマッサージのお客様が招待してくださったホームパーティーに家族で参加してきました。
 
 
 

疲れ気味のアリッサ。こういう素の顔のほうが、コスプレアリッサより魅力的。あかちゃん、アリッサに抱かれたら泣いちゃった。

 

 

 

 

 

 

豪邸、豪華。

 

 

 

 

 

掻き揚げバーが。

 

 

 

 

 

 

招待してくれたシャロンさんとあたし。セラピスト&クライエント以上の関係で、常にわたしのことを応援してくれます。ママ友に言えないこともシャロンさんには相談できる。

 

 

 

 

さて、さて、今日はわたしたち夫婦についてのpart 3。夫のお金の問題について。

 

順風満帆の結婚生活でしたが、私には大きな気がかりがありました。彼と私の経済感覚がまったく違っていたのです。

 

 

わたしは共働きのあまり裕福ではない家庭で育ちました。幼い頃から必死に働く両親の背中を見て育ち、働いて貯めても楽にならない生活というものがあるのを身にしみて知っていました。

 

 

両親とも贅沢を好まなかったせいか、わたしもブランドものや高価なアクセサリーにはまったく興味なし。両親が懸命働いて貯めたお金で留学し、卒業できたので、卒業後は絶対親に負担をかけないと肝に命じていました。

 

 

一方彼の父親はオハイオ州で整形外科医院を営んでおり、彼は裕福な家庭でなに不自由なく育てられました。オハイオの学生時代もその当時の学生には珍しく、自分の車を持っていたし、ブランドの服や時計が大好きでした。

 

 

就職後は、自由に使えるお金ができたせいか、車の改造や楽器など、趣味にかけるお金がどんどん増えていきました。

 

 

散財、浪費癖はなかったものの、実は私もお金の管理が苦手で、家計の管理は英語が母国語だからという理由(言い訳)ですべて夫に任せていました。

 

 

後に買い物依存症であったことがわかったのですが、夫はネットショッピングで次から次へと不必要なものを買い込んでいました。

 

 

購入したものは私にわからないよう、オフィス宛に郵送させていたようです。それでも自宅の彼の一室に物がドンドン増えていくのは一目瞭然で、彼の浪費癖について私が話し合いの場を設けようと試みたことは何度もありました。

 

 

ただ、彼はお金のことになると口を閉ざし、自分の殻には閉じこもってしまうことが多く、話し合いになりませんでした。

 

 

彼の心のなかに大きな空洞があって、物を買う事でその空洞 を必死にふさごうとしている感じがしました。

 

 

彼の実家が裕福で、義理の両親が彼のために貯蓄と投資をしているのを知っていたので、彼の買い物の資金はそこから来ているのであろうと憶測し、わたしも問題解決を回避していました。

 

 

今、思い返してみると、大切な事を面と向き合ってきちんと話し合うことが怖くもあり、面倒でもあったのです。

 

 

次回のブログでは、出産後からのわたしたち夫婦の関係の変化について書きます。



リトル東京のお寺に(神社はないのでお寺へ)初詣に行ってきました。

おみくじには「(今年)は深い地下に自ら身を隠していた竜が空へ飛び立ちときのような、幸福感、爽快感を感じるでしょう」とありました。今、まさにその竜と同じ感じ。いいことづくしな年になる!

 

 

 

 

 

Happy new year from LA🌈
 
 
 
LAは今12月31日、夕方です。日本ではもう年が明けてしまったのですね。
 
 
 
大晦日で家族でまったりの時間ですが、ちょっと抜け出してブログ書き。ブログ毎日更新を目標にしてますが、毎日って結構しんどいですね。
 
 
今回は、トランスジェンダー (MTF)とカミングアウトするずっと以前の、パートナーとわたしの新婚時代の頃について。今日は短めで。
 
 
 
 
カミングアウトしてから、新しい友人が増えたアリッサ。
 
コスプレのアドバイスをしてくれる友人、特殊メーク(?)してくれる友人、一緒にコンサートやイベントに行く友人。
 
わたしはコスプレの世界にはまったく無関心で、アリッサの新しい友達にもコスプレフレンズにも会ったことないけど、それでもまったくOK。カミングアウト前より、楽しそうでよい。
 
 
それでは新婚の頃のわたしたちの関係について。
 

付き合った当初から 「かかあ天下」。優しくておっとりした彼を、完全に尻にしいていました。彼の優しさに甘え切って、好きなことを好きなようにさせてもらっていました。優柔不断なところがある彼は、私の決断力とか押しの強さに、惹かれていたと思います。少なくとも、子供ができるまでは 。

 

 

私は大学卒業後、日系の出版社で営業や編集の仕事をしていましたが、結婚して永住権が取れたので、出版社での仕事を辞め、好きなことにチャレンジすることにしました。 

 

 

料理が大好きだったの、当時、ベニスビーチに開校したばかりの寿司職人養成学校に通い、夜は和食のレストランのキッチンで調理の仕事をしました。

 

 

帰りが夜中を過ぎ、週末出勤も多かったのに、彼は文句ひとつ言わず、応援してくれました。今振り返ると、彼の優しさと弱さにつけ込んで、わたしは自由を謳歌し、自分のやりたいことに突っ走っていた気がします。職場の日本人男性たちからは「自分だったら、嫁にそんな好き勝手なこと絶対させない」と言われていました。

 

 

彼はアメリカ最大規模の商業不動産の会社でコンピューター管理をする仕事に携わり、午前8時から午後6時までの定時の仕事をしていました。

 

 

時間的にすれ違うことが多くなりましたが、一緒に過ごせる時間を大切にし、愛情溢れる夫婦生活を送っていたと私は思います。自分のやりたいことが山ほどあったし、ふたりの時間を楽しみたかったので、子供がほしいとは思いませんでした。

 

 

夢に描いていたような理想の結婚生活でした。彼は私の好きなことを好きなようにさせてくれたし、仕事の休みの日は海、山、ハイキング、ワイナリー巡り、など南カリフォルニアならではの生活を満喫しました。

 
 
明日は順風満帆と思われた結婚生活に、不気味な影が?彼の浪費癖について書きます
 
 
 
 
 
餅つきマシン、冬場は大活躍。娘たちときゃあきゃあ騒ぎながら丸める作業が母ちゃんは好き。
 
 
もち、日系マーケットで買うとめちゃ高いです。
 
 
 

生意気ざかりだけど「マミのごはんはレストランより美味しい」って言ったりするから、母ちゃんは忙しくても料理には手を抜かない。料理で愛を表現。
 
 
 

Hello form LA

 

 

12月30日日曜日の夜8時30分です。仕事で忙しくなるので「今日はブログ書けません」宣言をしましたが、時間に余裕ができたので。

 

 
 
 
 
 

コスプレのアリッサ。赤毛のウイッグをすると、眩しいくらいにキレイです。

このブログで日本のみなさんがアリッサの美しさに触れ、「アリッサを檜舞台に立たせてあげたい」というのがわたしの密かな策略。シャイだけど、実は注目されたい人なんです。

 
 

 

 

わたしたち夫婦について書く予定でしたが、時間の余裕ができた今日はちょっと脱線して、わたしの両親について書こうと思います。

 

 

 

“Resilience”(レジリエンス)という言葉があります。「逆境に打ち勝つ能力」「打たれ強さ」「回復力」と言ったらわかりやすいでしょうか。詳しくは下記のサイトをご参照ください。

 
 
 

 

 

 

美しさとか聡明さとか、人様に胸張って自慢できること、何もないわたしですが、「打たれ強さ」にはちょっと自信があります。七回転んだら八回起き、最初に転んだ自分より8倍強くなって、「がははっ」と笑うことができる 。格闘家で例えたら、マイクタイソンとか、ジャイアント馬場とか、具志堅用高とか、マサ斎藤みたいな強さ。

 

 

 

 

わたしのなかにレジリエンスのバネを植え付けてくれたのは、他の誰でもないわたしの両親です。

 

 

 

 

 


両親。ハリウッドのチャイニーズシアターの前で。マイケルジャクソンがまだ生きてたころ。マイケルジャクソンみたいな人と撮りました。
 
 
 
 

まずは母。正義感に溢れ、まっすぐで、人の目を気にせず、自分の目標に向かって突き進むもの凄く強い女性。本をこよなく愛し、看護婦時代、 本を片手に読書しながら歩いて勤務先の病院まで通ってました。

 

 

 

 

 

 

わたしの実家、栃木県小山市は暴走族だらけの街でしたが、我が家の前を暴走族が爆走するときは、必ず、古新聞を投げつけて、「近所迷惑を考えなさい!」と怒鳴ってた。(ライダーたちにはまったく聞こえてないのですが)。

 

 

 

小学校にあがるまで、鬼のように怖くて厳しい人で、ちょっとでも曲がったことすると、ビンタ張られたり、トイレに軟禁されたり。

 

 

 

ひらがながやっと書けるようになった幼稚園生のわたしに日記を書くよう強制し、

「日記に感情がまったく表現されてないから書き直し」と怒られ、泣きながら日記を書いた鮮明な記憶あり。

 

 

小学校にあがってからは、完全放任主義。忘れ物したら、確認しないわたしの責任。中学校にあがってから、体操着のぜっけん付けも、弁当作りも、母が夜勤のときの夕食もぜんぶ自分でやってました。

 

 

わたしが通った中学校はワルが多いことで有名な学校でした。母からは常に「不良になるなら、一番ワルいトップのワルになりなさい」と言われてました(真面目で大人しい普通の中学生だったのですが。「中途半端にグレルのはかっこワルいから、やるならとことんやれ、それがいやならグレるな」と言いたかったんですね)。「人と同じことするな。出る杭になりなさい」も母の名言。

 

 

大人になってから、「どうしてあんなにわたしのこと、ほったらかしにしたの?」と聞いたら、「小学校にあがる前に自立する力を叩き込んだから、あなたがぶれない自信があった」と応えた母。かっこいい自慢の母です。

 

 

父について。「お父さんとお母さんどっちが好き?」と人から聞かれると、母に気を遣い「どっちも好き」と答えていましたが、本当のことを言うと、 優しくて、わたしの話にいつも耳を傾けて受け入れてくれる父が大好きでした。父に怒られた記憶はありません。清潔で、いつも笑顔で、太陽みたいな人。

 

 

 

わたしは心臓病を持って生まれ、6歳のときに宇都宮の大きな病院で手術を受けました。入院期間は1ヶ月。共働きで、8歳の姉の世話もあり、常に忙しい両親でしたが、交代で見舞いに来てくれました。

 

 

 

見舞いに来た父と塗り絵をするのが好きで、父の塗る絵がとても美しく、「お父さんはすごいな」と感動してたらあっという間にお別れの時間になって、「泣いたらお父さんが困るから絶対泣いちゃダメだ」と自分に言い聞かせてるのに、涙がやっぱり止まらない、この繰り返し。父が見舞いに来るときは、結局いつもお別れのときに泣いてました。

 

 

 

地元に思川という川があって、父と川に行くのが好きでした。無口で多くを語らない人だけど、ただ隣にいるだけで心地よかった。川縁でふたりでアイスクリームを食べると幸せな気持ちでいっぱいになりました。

 

 

 

ラスベガスでの挙式の際、友人の女性たちから「お父さんと仲良しで羨ましい」「うちの頑固者の父とは大違い」と言われて、父が特別な人であることを再確認し、父をさらに誇りに思った。

 

 

 

 

人様に自分の両親を自慢できる機会などめったにないので、ブログで思いっきり自慢話。

 

 

こんなかっこいい両親に育ててもらったおかげで、打たれ強い今の自分がいます。

パートナーのカミングアウトでノックダウンされてから、立ち上がって「がはは」と笑えるようになるまで、ちょっと時間がかかり過ぎたけど、今のわたしとっても強いです。

 

 

ジャイアント馬場みたいに強くなって、娘たちとアリッサを幸せにするんだ!

 

 

両親に感謝。

 

 

 

 

 
 
 

 

 
Hello from LA.
 
 
今、LAは土曜日、夜の10時。毎日ブログを更新することを目標にしてます。が、明日は早朝から遅くまで仕事で、ブログを書く時間がないので、土曜日2回目のブログです。
 
 
 

 

今日は松茸栗ごはんと、娘たちの大好きなクリームシチュー。ちょっと季節外れですが、近所の韓国マーケットで立派な栗が買えます。韓国人のお友達曰く、「栗は丸ごとゆでて、焼酎のつまみにするのが一番」。焼酎をちびりちびり飲みながら、歯で噛んで、しぼり出して、楽しむそうです。

 

 

 

さて、今回は1997年にさかのぼり、わたしたちの出会いについて書きたいと思います。

 

 

夫に出会ったのは、アメリカ、オハイオ州での留学時代でした。日本の短大を卒業後、留学資金を貯めるために日本で仕事をしてから渡米したため、当時私は22歳、彼はひとつ年下の21歳でした。 

 

 

アジア人学生が極端に少ない学校だったので、タイ系アメリカ人の彼のことは、なんとなく知っていました。キラキラした大きな瞳が印象的で、かわいらしい男の子。



 

 

学生の間でも「美し過ぎる」と有名なゲイの男の子といつも一緒にいたので「彼もきっとゲイなんだろう」と思い込んでいました。



「キャンパスで愛を見かけて、忘れられなくなった。友達に頼んで愛の連絡先を聞き出した。ぜひ付き合ってほしい」と告白されたときは、うれしさよりも「ゲイじゃなかったんだ」という驚きのほうが強かったように思います。

 

 

 

大雑把な私と違って、繊細でロマンチストな彼は、私のことをとても大切にしてくれました。

 

 


誠実で、包容力があり、忍耐強く、限りなく優しい人。幼い頃から父との関係が良好で、私は父をとても尊敬しているのですが、彼には父を思わせるところがたくさんありました。




日本語を勉強していたので、一生懸命に片言の日本語で話しかけてくれる彼を愛しく思いました。

 

 

タイと中国の血が混じった彼の顔は美しく、彼と一緒に手をつないでキャンパスを歩くのをとても誇らしく思いました。




透き通って大きな茶色の目や、長くびっしりとはえ揃った睫毛にため息をついたことも幾度となくありました。



 

 

私と出会う前、彼は語学研修で日本に1ヶ月ほど滞在したことがあるのですが、当時、ホストファミリーのお母さんやそのお友達のおばさまたちからは「タイのトムクルーズ」と呼ばれ、ちやほやされたそうです。その話を聞いて以来、 友人たちに彼を紹介するときは「タイのトムクルーズです」と付け添えることを忘れませんでした。

 

 

 

 
卒業後、LAで就職し、同棲していた頃。ぽっちゃり気味。
 
 

大学卒業後、私は就職のため、LAに移住。1年先に卒業し、オハイオの会社に就職していた彼とは遠距離で付き合いを続けていましたが、半年後に彼のLA転勤が決まり、1年弱の同棲生活を経て、2000年に結婚しました。
 
 
書類を提出し、ラスベガスのチャペルでふたりだけで式を挙げました。



当時、オハイオ州からタイランドに引き上げて、バンコクに住んでいた義理の両親は、彼にはタイ人の女性との結婚をのぞんでいたので、最後まで私たちふたりの結婚には反対でした。




地味婚でしたが、これから彼とふたりで人生を共に歩めることの喜びで満ちあふれていました。




婚姻届を提出したのは2000年。4年後に家族と親友を招待し、ラスベガスで挙式しました。デジカメのない時代 (あったのかしら)でした。


 
次回はわたしたちの結婚生活について書きます。
 
 

 

Good morning from LA 🌈
 
 
今、LAは土曜の朝、5時50分。ブログを書いたら、わたしの職場、Equinox というジムに泳ぎに行きます。透き通った冷たい空気とか、誰もいない、音のない通りとか、朝の静寂が好きで、いつも早起きです。
 
 
 
 
 
 
「命短し 恋せよ 乙女 紅き唇  褪せぬ間に」

コスプレにはまってる最近のアリッサ。かつらを被って、カラコン入れて、念入りに化粧すると、バービー(人形の)よりキュート。男性がみな振り返ります。
 
 
 
 

 

あ、また涙でそう。男前父ちゃんとわたしが呼んでたころのアリッサ。今見ても、ほんとかっこいいな。大きくてごっつい手が大好きでした。

 

 

 

前回の続き。

わたしをどん底に陥れる事件が続き、夫がカミングアウトした後に…

 

 

 

夫に対して聞きたいことは山ほどありましたが、まずどうしても知りたかったのが、なぜ私に一言も相談せず、娘たちに打ち明けてしまったのか。娘たちは当時まだ7歳と9歳でした。

 

「なぜ、私に先に話してくれなかったの」

「どうして、カミングアウトするのを娘たちがもっと大きくなるまで我慢できなかったの?」。

 

 

「どうしても言い出せなかった。勇気がなかった。離婚されて、愛や娘たちを失うのが怖かった」と夫。



 

これは痛かった。娘からの報告でノックアウトされ、さらにその切り傷に粗塩を擦り込まれるような痛みに、心と脳が悲鳴をあげました。

 

1997年に知り合い、20年近く一緒にいたのに。こんなに重大なことをわたしに一言も相談できないほど、夫婦関係は壊れていたのだなと改めて気付き、悲しみが一層増しました。

 

 

 

娘たちが成人するのを待たずにカミングアウトしたのは、当時通っていたカウンセラーやトランスジェンダーの会のアドバイザーに「年齢が低ければ低いほど、子供たちはトランスジェンダーの親の変化を受け入れやすい」と助言を受けたからだとか。

 

 

 

彼の説明が耳にはいりませんでした。自分の「女性になりたい」という欲望を押さえきれず、私に相談もせずに小学生の娘たちに打ち明けてしまった彼に絶望しました。

 

 

 

前にも書きましたが、「今まで我慢し続けて、つらかったんだろうな」といった彼への労りの気持ちなどはこれっぽっちも浮かばす、彼のおろかさ、無責任さ、自分勝手さへの怒りで、爆発しそうになりました。


今振り返ると、わたしこそ自己中で残酷でした。ごめんなさい、アリッサ。

 

 

 

 
うちのワン子、ルナ。アリッサがカミングアウトした5ヶ月後の2016年の10月、シェルターからアダプトしました。


おねだりしてほしがったのは子供たちよりもわたしでした。

乾いてガサガサだった心を犬に癒してほしかった。犬の世話して心を紛らわせたかった。

ルナを散歩しながら、そのときの気持ちを大声でうたう迷惑女のわたしですが、当時よくうたったのは、「贈る言葉」の「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから」のフレーズ。あとは、玉置浩二の「行かないで」。朝と夜の散歩の時間、泣きながらうたってた。
 
 
 

7歳だった娘が描いたうちのルナ。躾のクラスを取ってもちっとも飼い主の言うこと聞かず、ご近所さんからも嫌われ、「ワルーナ」(悪いルナ)と呼ばれたりする我が家の暴れん坊将軍ですが、スライパン家にはなくてはならない存在。みなが癒されてる。