杭州詩祭旅行⑥ ~中国の詩人たちと杭州詩祭で感じたこと~ | 野村眞里子のブログ <オラ・デル・テ>

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1月3日の朝7時15分、上海浦東空港を出発した代替便の飛行機は順調に飛行した。往きも帰りもほとんど揺れることはなかったが、3時間ちょっとの飛行中、ずっとシートベルト着用サインが出ていた。

 

「羽田空港の状況は今どうなんだろう?」と誰もが思っていたに違いないが、機内ではあまりしゃべる人もなく静かだった。

 

ちなみに、中国東方航空のエコノミークラスの機内食はこんな感じだ。1・2枚目の写真は往き、3・4枚目の写真は帰り。どちらも中国料理だが、やや甘みが強い味付けだ。また、アルコール類とホットドリンクの提供はなく、さらにアイスのウーロン茶も見当たらず、ジュース類かコーラを飲むしかなかった。少々残念。

 

 

 

 

 

 

 

 

オーディオは、音楽、映画などにあまり興味が持てるものがなく、ゲームは往復とも使用できなかった。そんなわけで、到着前に少し今回の詩祭のことを振り返っておこうと思った。写真は、出演者の夫のみならず私にもくださった詩祭の資料やお土産。

 

 

 

 

 

タイトル:二〇二三平行詩歌節 ~再度喚醒世界~

期間:2023年12月30日~2024年1月1日

会場:杭州・天目里「1号楼」「6号楼」「16号楼」他

出演:36人。31人の詩人と他ジャンルの5人のアーティスト(日本にはない漢字の出演者が多いため、入力できません。写真をご参照ください。)

 

 

 

 

 

内容は多岐にわたっており、そのすべてを紹介することは出来ないが、トーク、朗読、映画上映、ビデオインスタレーション、展示、物販が毎日さまざまな会場で行われていた。

 

田原さんが言った。「こんな規模の詩のフェスティバル、日本じゃできないでしょう?」

それに対して私も答えた。「私は1995年と、1997年と、2007年にもっと大きな詩のフェスティバルを開催したことがあります。95年は7日間、97年は17日間、2007年は2日間でした。」

 

「ああ、そういえば、そうだった。そのフェスティバルのことは、僕も(高橋)睦郎さんや(谷川)俊太郎さんから聞いたよ。あなたのことを褒めてた。海外のダンスカンパニーも呼んだよね。インターネットで見たら、いいカンパニーだった。航空運賃やギャラが大変だったでしょう? いったいいくらかかったの? 日本政府の援助はあった?」

「日本政府の援助はなかったけれど、フランス政府の援助はいただきました。」

「そうなの? フランス、やっぱりすごいね!」

「あと、劇場側の援助が大きくて、会場費とスタッフ代をほとんど無料にしていただきました。もちろん、企業のサポートも受けました。」

夫も話に加わる。「またやりたいですけど、今の日本ではもうできないような規模の詩のイベントです。中国に期待するしかないですね。」

「そうだね。大きいイベントは今中国しかできないよ」と、田原さん。

 

とはいえ、私はまだあきらめていない! 今年と来年は創作フラメンコ公演を開催するのでとてもゆとりはないが、2026年以降なら、第4回目の『現代詩フェスティバル』を開催できるかもしれないと思っている。そこには、多くの日本人詩人のほか、海外の詩人にも参加してもらおう。もちろん、さまざまな他ジャンルのアーティストにも!

 

と、夢はまだあるので、もうこれ以上怪我などせず、体に気をつけて長生きしようと思う。(笑)

 

さて、話を杭州詩祭に戻すと、「平行」というコンセプトは、北島(Bei Dao, 1949〜)さんが考えたものだという。それは、「現代詩は難しいものではない。特別なものではない。誰でも平等に書ける」ということを表わしているそうだ。

 

さらに、若い詩祭スタッフの一人もこんな風に言った。「多くの若者に、詩と出会って幸せになってもらうことが、この詩祭の目的なんです。そして、自分でも詩を書こうと思って欲しい。詩は特別なものではないのだから――」

 

集会の禁止、インターネット利用や表現の自由の制限など、さまざまな問題のある今の中国。でも「詩」というコンセプトがあれば大勢で集まれるし、「詩を書くこと」で自分なりの悲しみ・不安・怒りを表現することだってできる。訪中前には気づかなかった、杭州詩祭の「隠された目的」に気づいた私だった。

 

詩祭に招かれた31人の詩人の中には、「亡命詩人」の北島さんもいるし、「旅日詩人」の田原さんもいる。

 

北島さんは、代表的な「朦朧詩人」(注:文化大革命中の芸術制限に抵抗を示した詩人グループ)の一人で、文芸誌『今天』(1980年停刊処分。1990年にノルウェーで、1998年には日本で復刻)の主編をつとめ、そこに詩や小説を発表された。その後、イギリス、アメリカ、ノルウェー、スエーデン、デンマーク、オランダ、フランスなど、世界各国の大学などで教鞭をとり、2008年から香港中文大学人文講座教授となった。現在は、中国への入国も何ら問題ないそうで、この詩祭へも参加することができた。

 

だが、1989年6月、天安門広場に集まった若者たちが彼の詩「宣告――遇羅克に献ぐ」を掲げていたことは、記憶にとどめておきたい。なお、彼らが掲げ、その後トートバッグにもなったという詩行は、次のうち10~12行目。

 

宣告――遇羅克に献ぐ        北島(是永駿訳)

 

最後の時がやって来たのかもしれない

わたしは遺言を残さなかった

ただペンのみを残し、母に与えた

わたしは英雄ではない

英雄のいない時代に

わたしはただ、ひとりの人間でありたいと願うだけだ

 

静かな地平線が

生者と死者の行列を分ける

わたしは空を選ぶのみ

決して地上にひざまずかない

それで明らかにしてやる、殺戮者どもの尊大さを

あの自由の風をやすやすとさえぎるものを

 

星の弾痕から

血のように赤い黎明が流れ出すだろう

 

また、北島さんがスペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898-1936)を翻訳で読み、大きな影響を受けていたことも、私の北島さんの作品への親しみを大きくしたものだ。

 

(私は、2025年にロルカをテーマにした創作フラメンコ公演を上演したいと考えている。)

 

田原さんは、当初より「旅日詩人」としての出国を考えたらしいが、「天安門事件に参加していたことから、中国を出るのがかなり難しかった」そうだ。そうした田原さんの人生を考えると、昨年11月に開催された「しずおか連詩の会」で書かれた詩の数々が、別の印象をもたらすように思う。三十六詩を引用させていただく。

 

三十六

母語の船に乗って日本語の浅瀬に座礁した

国籍不明の漢字たちが船首に立って望洋の嘆をして

意味の彼岸はどこにあるのだろう

(原)

 

それにしても、中国の若手詩人たちが夫に寄せてくださった敬意は、驚くほどのものだった。彼らは、口をそろえて「野村先生の詩をもっともっと中国で翻訳して欲しいです」と言う。谷川俊太郎さんの詩の翻訳以上に、田原さんにはたいへんな思いをさせてしまうこと請け合いだが、私も夫の詩の中国語訳をぜひいろいろ読んでみたい。

 

詩祭や詩人たちのことをあれこれ考えているうちに、中国東方航空機は羽田空港に着陸した。燃えた飛行機の残骸を見ることもなく、飛行機は駐機場へ。CAさんから最後に下りるように指示され待っていると、地上職員が飛行機の出口に車椅子を持って来てくださった。

 

ボーディング・ブリッジは車椅子で移動し、ターミナルに入ってからは職員の方が運転するカートに夫や荷物とともに乗り、税関まで移動。再び車椅子に乗り換え、入国審査、荷物受け取り、通関をした。

 

驚いたのは、私の荷物(ハンドバッグ)に麻薬捜査犬が反応してしまったこと。何度も手荷物を調べていただいたが、夫の荷物も私の荷物も何も怪しいものは出ない。つまり、捜査犬はホテルでいただいた朝ごはんのリンゴに反応したのだった。すでにリンゴは食べてしまい、何もなかったのだが――。

 

「あ~、そうでしたか。それでは、リンゴの残臭に反応したんですね!」と係の方。私は、その捜査犬を「いい子、いい子。よくお仕事しましたね」と褒めてあげた。本当は撫でてあげたかったぐらいだが。(笑)

 

地上職員は、事故翌日の羽田空港でてんてこ舞いにもかかわらず、私たちをタクシー乗り場まで送ってくださった。

 

(本当に、ありがとうございます!)

 

道はすいていて30分ほどで自宅に着いた。だが、杭州のアトリエを出てから約25時間半かけての帰国だった。

 

新年からいろいろあり過ぎて、まだ頭の整理が十分できていませんが、少しずつ日常生活を取り戻していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。