杭州詩祭旅行⑤ ~杭州から25時間かけて帰国~ | 野村眞里子のブログ <オラ・デル・テ>

野村眞里子のブログ <オラ・デル・テ>

ブログの説明を入力します。

1月2日(火)。唯一中国でアクセスできるサイト「ヤフー! ジャパン」を見て、地震のことを知った。ものすごく大きな地震に、動揺した。私自身には石川県に親戚はいないが、たしか財団スタッフTさんの旦那様の実家があり、フラメンコアーティストKさんの実家もあったはずだ。無事だろうか。

 

実は、亡くなった父が輪島が大好きでよく訪れていたため、今住んでいる私の実家の使っていない部屋には、輪島塗の座卓が2つもある。

 

1月2日は中国からの帰国予定日。8時半朝食、10時半出発というスケジュールだった。2010年に左膝に大怪我をして以来、私は普段――踊るとき以外――は右足重心で暮らしていたが、今回右膝に怪我をしたことで左足重心に変えなければならなかった。これが案外難しい。夫にも手伝ってもらいながら、車椅子に乗り、時々は杖をついて立ち上がり、たっぷり時間をかけて帰国の準備をした。

 

10時15分には早くも見送りの人々が部屋に到着した。詩祭スタッフが2人、サッカー選手が1人、そして詩人/カメラマンのヒョウさんだ。4人で手分けして車椅子を押し、スーツケースやリュックなどを持って、タクシー乗場に私たちを送ってくださった。上海在住のヒョウさんは、いっしょに空港まで来てくださるとか。心強い。

 

別れ際、私たちの担当だった「レッツゴー!」が口癖の明るいスタッフにはお抹茶のラング・ド・シャを、病院にも付き添ってくださったサッカー選手にはお正月仕様のおかきをお礼に差し上げた。2人ともとても喜んでくださった。

 

(日本のお土産を持って来て、本当によかった。)

 

杭州からは車で3時間ほどと聞いていたが、道がすいていたため3時間はかからなかった。そして往きは上海虹橋空港だったが、帰りは新しくできた上海浦東空港からだった。タクシーが到着すると、すでに車椅子を持った空港職員が入口で待っていてくださった。

 

17時05分発の飛行機のため、まだチェックインには早かった。だが、私が怪我をしているということで、特別にチェックインカウンターを開けてくださり、スーツケースも預かってくださった。

 

そこで、ヒョウさんと夫と私はランチを食べることにした。でも私が車椅子のためレストランに入るのが難しいと判断したヒョウさんは、夫と二人でお弁当を買いに行ってくださった。そして買ってきたのは夫も私も大好物の海南鶏飯。お弁当とは言え、本場で食べる海南鶏飯はどんなものだろうとワクワクした。しかも親切なことに、ヒョウさんがご自分のスーツケースを私のテーブル代わりにして、お弁当を並べてくださった。

 

 

 

 

 

 

 

大満足のランチの後、ヒョウさんはご自分のスマホの写真を私たちに次々と見せてくださった。彼は日本が大好きで、これまで数えきれないほど日本を訪ね、写真を撮ったという。詩と写真――その両方が、ヒョウさんのアートの世界を作っていることがよく分かった。

 

「僕は、喫茶店の窓などを通して見る日本の風景が好きなんです」と、ヒョウさん。モノクロ写真も多く、また風景の中には喫茶店の明かりなどが不思議に写り込んでいるものも目立った。私は、鎌倉の大仏を斜めからアップで撮った写真が気に入った。空には一羽の鳥。

 

夫は私の「ポケトーク」を使い、ヒョウさんに写真の感想を伝え始めた。長いと思われた待ち時間だったが、こうしてあっという間に過ぎて行った。

 

 

 

 

 

14時40分、別の空港職員が私たちのところにやって来た。車椅子を乗り換え、搭乗口へ。ヒョウさんはここまでとなるので、お礼に「WEST」のリーフパイ――日本から持ってきた最後のお土産――を差し上げた。とても喜んでくださり、夫と私それぞれにハグしてくださった。

 

通関も荷物検査も、車椅子の私たちはVIPやクルーの使う通路を使うことになった。そして、その先も職員は特別の通路とエレベーターを使い、搭乗ゲートへ直行。つまり、一般の通路ではなかったため、お土産を買うことがまったくできなくなってしまったのだ。

 

(スタッフへのお土産も何も買えなかった。ごめんなさい!)

 

そして、搭乗時間になると真っ先に搭乗させてもらえた。機内に入ってからは歩くのもCAさんのサポート付きだった。

 

(ありがとうございます!)

 

いよいよ出発となり、搭乗機は空港内を移動して滑走路へと向かった。そして、まさに飛び立とうというその瞬間、「今羽田空港が閉鎖されました。この飛行機は駐機場に引き返します」とのアナウンスがあり、機内がざわついた。

 

次々と乗客がスマホを見る。羽田空港でJAL機が別の飛行機と衝突して、まさに炎上していた。電話をかけまくる人もいた。後から分かったことだが、夫のパソコンメールに、何人もの中国人の方から「サポートが必要なら、電話をください」の連絡が来ていた。

 

私たち乗客全員は、飛行機から下ろされ、再び中国に入国し、預けた荷物を受け取ることになった。その間アナウンスでは、「ホテルは満員です」と繰り返し言っていたので、空港での宿泊を覚悟した。

 

そんな中でも、空港職員が相変わらず私の車椅子を押してくださった。やがて、大型バス3台が手配され、私たちは乗り込むように言われた。だが、バスのステップの一段一段が高いため、一足ごとに膝と肋骨に激痛が走った。

 

バスは空港からさほど遠くない場所にあるホテルに停まった。説明はないが――誰も事情を把握していない――、私と夫はこれまでも数多く飛行機のトラブルに遭っているため、「たぶん、話がついてホテル代がどこかから支払われるのだろう。羽田空港の閉鎖が解かれるまでの一時的な滞在になるはずだから、3時か4時の出発になりそうだ」と考えた。

 

中国語しか話せないフロントスタッフによる宿泊手続きを済ませてから、夕食を手渡されて部屋へ。ロビー脇にあった売店で水とビールも買った。お弁当はシンプルだがおいしかった。そして、目覚ましをかけベッドへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

間もなくワンコールがあった。夫がフロントに「なんでしょうか?」とかけ直す。すると、「4時にバス出発、7時15分のフライトに搭乗」というようなことを、中国語訛りの英語で言っていたそうだ。そこで、「4時ですね? 4時なんですね?」と英語で何度も繰り返した。

 

とにかく帰国できることがわかり、ほっとしながら3時に目覚ましをかけた。そして4時15分前に玄関に行くと、すでに大勢の人が並んでいた。下ろされた飛行機で私たちの近くにいらした日本語と中国語の堪能な男性が、「調べてみたら、このホテル投資用に建てたものらしいですね。だから普段あまり使われていなくて、英語もまったく通じないです」と説明してくださった。

 

(なるほど。)

 

英語が通じないとしても、私はフロントに伝えたいことがあった。そう、車椅子のこと。「バスが空港に着いたら、車椅子を用意していただきたいのですが」と「ポケトーク」で伝える。女性スタッフがOKの返事をしてくださった。

 

バスが空港に着くと、車椅子を持った職員が待っていてくださった。通路などは最初の時と同じで、すべてが優先のものだった。

 

こうして新たな飛行機に乗り込み、小雨のなか、7時15分発の中国東方航空の飛行機で私たちは羽田へと向かった。そして到着は日本時間の11時過ぎ。杭州のアトリエを出てから、実に25時間ほどかかる帰国だった。(その6へ続く。)