お義母さんを引き取って、思います。
これは、「期待をしない」というトレーニングだなって。
期待しない分だけ、この世のリアルをより見ることができるでしょう。
そうやって、じぶんの行く末を覚悟して行く・・ほろほろと。
1.お義母さんがようやく退院した
入院の頻度が加速している。
91歳のお義母さんを故郷から剥がして、見も知らぬ関西に引き取ったのははたして正解だったんかい?
かのじょも、きっと揺れていると思う。
「今回は、きつかったー」とお義母さんがいう。
いえいえ、あなたは年に数回病院に担ぎ込まれ、毎回同じことを言う。
ふだん、「わたしゃ、いつ死んでもいい」とか言ってるんだけど、
いざとなったら、死ぬほど体のことを心配する。
死を死ぬほど恐れる。
お義母さんは、生に対する執着が生き物としてまだ存分に強い。
あなたは、まだ死ねません。
今回は大腸に憩室(けいしつ)という小さなふくらみがいっぱい出来て、その1つが破裂した。
で、どばーっとトイレで下血した。半年前と同じだった。
本人はびっくり、うろたえた。
市立病院へ担ぎ込んだ。すぐ入院となり、点滴三昧に。
高齢者のうち、1,2割はなぜか、入院すると”譫妄(せんもう)”になる。
ここに居るはずのない息子やわたしが深夜、3階の窓の外に立って雨に濡れていた。
あまりにリアルに見えた。
お義母さんはなんとかしてくれと深夜1時に電話をかけまくった。
わたしもそこにいるという。
いえいえ、わたしは家で寝てますよといっても聞かない。
お前(長男)もここにいるという。
実家の方も、あなたの息子はここで寝ているよと言ってもお義母さん聞かない。
非情にリアルな映像なのだそうだ。
深夜の電話掛け魔は、すぐに肺炎に感染し大人しくなった。
高齢者は免疫どんどん無くなるので、そこらへんに常在している弱っちい肺炎菌にも罹って重症化する。
たぶん、死因の上位の1つは肺炎だろう。
お医者さんもわたしたちも本人に教えなかったが、ばっちり感染していた。
どこでもらったん?
本人、辛がった。
胸が気持ち悪いんだ、すごく辛いと繰り返した。
そりゃそうだ。呼吸がうまくできない。
溺れ続け窒息直前のようなものだろうから、つらいはずだ。
もう譫妄どころでなくなり、でも、出血続き、へろへろに。
見舞いに行くと、もうすぐ逝っちゃうのかなというほどに、げっそりした顔になっていた。
91歳がげっそりすると、そりゃもう鬼気迫るものがある。
いや、実は、譫妄は続いていて、黒いマントをはおった怖い者が来るという。
どこかへ連れて行こうとする、わたしゃ未だ行かないっ!
お義母さんにとってはリアルだったという。怖い! ビビリまくっていた。
始終寒い寒いという。
温度センサがいかれていて、汗をかくほどの室温でも寒がる。
脳の細胞が死んで行く中で、温度センサが送って来る信号を処理する回路がやられる。
がっつり、服を着こむ。老人たちが夏場、クーラー付けないのはそういうわけだ。
熱中症に気をつけようと言うのだけれど、老人は極寒を感じている。
見舞いに行って、からだをさすってあげた。
ああ、、暖かな手だねと、お義母さんは言った。
何思ってるのと聞くと、チョコのことだという。
ああ、、わたしゃ、チョコが食べたいっていう。
本気で食べたいのだ。
91歳の病人なのに。娘さんは、母の食欲に仰天した。
病院の食事がようやく再開された。
先ずは3分粥から。しゃばしゃばなんだそうだ。
それに病院の出すお魚はあまり美味しくないという。
看護師さんから、こっそりゼリーをもらって喜んでた。
レントゲン検査と採血が続いた。
そして、ようやく、肺炎も大腸の出血も収まり、今日、めでたく出所に。
骨折繰り返してよぼよぼとしか歩けなかったのが、寝たきりで一層歩けない。
ももに肉が見当たらない。残ってる大腿骨もなんだか怪しい。
ゆっくり1歩。もう1歩。。。交互に足を繰り出した。
タクシーにようやく乗り込んだ。
2.何を食べてもらうのか
本人、退院を喜んでいるのかというとそうでもない。
世話かけるね、すまないねばっかりいう。
お金がいくらかかってたかを気にしている。
CT検査をすると、大腸にはいっぱい、ふくらみが出来ている。
また、半年もすると、どれかがまたぷちんと破裂すると思われる。
お義母さんは、高齢者にしては非常に明晰だ。認知症ではない。
質問魔、依頼魔なので、医師や看護師の中には嫌がる人も出て来る。
でも、みんなその脳の達者さには驚く。
今日は何日の何曜日なのかはきちんと管理している。
オシッコ信号が脳から来なくなったので、3時間毎に自分でトイレに行く。
でも、高齢化とは、脳細胞の脱落であることに変わりない。
昔の記憶は明瞭で、最近のは忘れるなんていう単純なものではない。昔もよく忘れる。
怖かった父親の話はしてくれるが、乳を与え世話してくれた母親のことは思い出せないという。
最近のことはすぐに記憶から脱落する。が、妙に覚えていることもある。食べもの関係だ。
どうしようか。
今後、大腸の憩室が減りそうもない。
好きなものいっぱい食べてもらおうか。
脳が活発な人は、脳が唯一たべれるブドウ糖を好む。
いや、やっぱり、糖質は大腸にインパクトがある。
いや、医者たちはみな、もうお年なので好きなものをという。
食欲が無くならないことを優先する。
まっ、とにかく、マンションに凱旋したので、かのじょは母にチョコをあげた。
入院中、ずっと一途にお慕い申し上げていた君なのだ。
お義母さんは、大きなチョコをぱくっと平らげた。
3.上部類なのだ
どうなんだろう?
リューマチで肩も手も動かない。食事の時は、スプーンでなんとか食べている。
寝返りもほとんど出来ない。
ベッドからもなかなか起き上がれない。腹筋が無い。
歩行器が無ければ、トイレまで行けない。
至る所の筋肉がそうして劣化すると、一層寝たきりとなり、いよいよ筋肉が無くなって行く。
この循環に入ると、寝たきりになるのは簡単だ。
どんどん「寝たきり」に近づき、世話ばかり掛けてしまう。
耳の神経細胞も劣化し、コミュニケーションに必須な音が聞こえなくなる。
会話も満足にできない。
お義母さんは、なんとか、起き上がること、トイレまで行くこと、食事と薬を飲むことに邁進する。
初めてあった頃のお義母さんの写真が障害者手帳に張り付けてある。
精悍な目をしており、聡明な人だった。一家を采配していた。
でも、高齢者は、筋肉と脳が劣化する。感覚器もみんなダメになる。
出来ていたことが出来なくなる。情けなくなる。
汚くなる。世話ばかりかかる面倒くさい存在になる。
わたしも、いらっとすることがある。
すぐに忘れるものだから、なんて無責任な発言かと憤慨もする。
そうして、怒ったりした後に、わたしは必ず、あの手帳の写真のことを思う。
お義母さんは「上部類」なのだ。
認知症者のように、汚物をまき散らしたり、徘徊したり、嫁に金を盗んだだろと言ったりはしない。
お義母さんが認知症だったら、わたしは耐えれず暴力振るったかもしれない。
お義母さんという存在は、わたしの弱い所を揺さぶって来る。
わたしは怒ったり不機嫌になる。
けど、それは必ずわたし自身が行く所で、たぶん、わたしはもっと程度がひどいのだ。
お義母さん、上部類なのだと気が付く。
わたしは、愕然とする。
きっとわたしは、ボケて徘徊ばかりしているんだろう。
わたしを世話するであろう人は、間違いなくわたしにうんざりするのだ。
お義母さんを引き取るということは、じぶんの先を学ぶということだった。
4.期待ということ
いつも、この世界がわたしに伝えたいことってある。
それは、お義母さんを見ているこの目とじぶん自身とを同一化していては分からない。
じぶんのこころや感情に自己が同一化している限り、その地平を超えて行くことはない。
目の前のことが良い悪いというようなことを解釈して欲しくて、この世がわたしにメッセージしているんじゃない。
もっと遥かに深遠な声を届けている。と思う。
こう在って欲しい、こう在るべきだ、これが正しいという構えのベースには「期待」がある。
人間として、大人として、まともであるべきなのだ。
しかし、多くの老人はお義母さんより、もっと脳細胞が脱落する。
たとえば、脳の灰白質が成人の1/3いや1/2が死んでしまっているだろう。
残った脳細胞で必死にやりくりしないといけない。
今のわたしは、1/1で運転している。
わたしは、そんな劣悪な運転したことがないのだ。
お前はなってない、と老いた者に言うのは簡単だ。
お前はバカだと言うのは、たぶんサルでもできる。
努力という点では、わたしが思っている以上に高齢者はがんばっているのだ。
サボっているのではなく、縮退モードで全力を尽くしている姿をわたしは目撃しているのだ。
「期待」とは、相手に「委ねる」ことだ。
相手がわたしの望みの通りになるかならないかに依存してしまう。
主体的とは、相手ではなく、自分の信念に身を任せることだと思う。
「期待」すると、わたしが本来せねばならないことから逃げてしまう。
他責にして主体を無くしてしまう。
怒ったりするその勇ましい外見の下に泣き虫がいるのだ。
強く生きるには、わたしらしく生きるにはどうしたらいいんだろう?
「期待」を一方的に押し付けてはならない、というような道徳論は役に立たない。
「期待」は、この世のリアル、この世の真実から身を遠ざけてしまうでしょう。
リアルが分からなければ、次の打つ手が分からないままだ。
あてずっぽうに生きることになる。
そんなのは、お金も時間も体力も、脳細胞も少ない者にはだんぜん、お薦めできない。
期待を脱落させ、リアルを受け取るしかないと言いたい。
それは勇気のいることかもしれない。
もう、じぶんを甘やかし感傷に耽るには、いいとしになってしまったんだ。
お義母さんはさまざまに”わたし”に問う。