赤毛のポンタ  親子の「情」ではなく「侠」 | 黄昏黒猫屋敷ー布人形とイラストの小部屋

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世間からかなりずれている管理人、黄昏黒猫堂こと黒猫が自作人形やイラストを発表しつつ、ニート、ひきこもりなど生きずらさを考える。(画像一覧で作品を見ていただけるとうれしいです。)

赤毛のポンタ。狸が好きです。よく庭に遊びに来る馴染みの動物ということもあるけれど(犬や猫よりもたくさんいる)、頭に葉っぱを乗せて人に化けるなんて素敵じゃないか。その辺ですれ違った人が実は狸だったりして。嗜好的に人外の者が好きです。

 

 

最近息子に対する感覚が変わってきているように思う。息子というよりもひとりの若い衆という感覚の方が強くなってきている。息子は不登校で中学には1日も行っておらず、定時制高校、専門学校、一般企業をへて、今は福祉作業所の非常勤職員をしながら通信制大学で学び、来春には精神保健福祉士の国家試験を受ける予定だ。いろいろと心配をかけさせてくれたが、それも今は過去のことで、僕の中では今や、紆余曲折の面白い経歴を持った若者という感じだ。息子はまだ家にいるが、どうもこの頃、というか、もう以前から、宿を提供している「食客」というイメージが強くなっている。

「食客」といっても、この時代では馴染みのない言葉だろうが、とにかく見込みがあるのかないのか分からないが、とりあえず気に入った若者を家に住まわせておく酔狂な古代中国の習慣だ。もちろん僕は「食客」を囲えるような御大層な身分ではないが、気持ち的には「情」よりも食客に対して持つ「侠」が強いような感じだ。育てたことについては、「出世払いでいい、ただ全然あてにはしていないがな。」という感じで、もちろんいつ出て行っても構わないし、今いるからにはとことん面倒は見る。そして後のことは一切気兼ねはいらない。「侠」とはそういうものだろう。相手に後ろ髪を感じさせては「侠」ではない。

 ふと思った。育児とは、ひとつの「酔狂」だろう。ただし「酔狂」というものはきまぐれなどではなく、「歌舞伎者」の「傾く」と同様に身を賭したものだろう。あるいは人生を賭けたものかもしれない。そして「酔狂」であるからには、子供は若者となりそれを泰然と見送るのが「侠」であろう。どうもこのところ「情」を持ち出すことについて違和感を感じる。むしろ「侠」が腑に落ちる。

 もうひとり、娘がいるが、こちらは多大に問題ありで、「食客」というより、家に棲みついた「怪異(座敷童子)」のようなものだが、才気煥発という点では息子のはるか上を行くと感じる。その才気煥発をどう活かしていけるかについては今後の課題だ。娘についても「情」だけでは割り切れない「侠」の部分がある。「食客(娘の場合、怪異でもあるが)」に対する責任については「情」よりも「侠」がより大きく働く気がする。「侠」とは古代中国の春秋戦国時代の「侠客」から持ち出した言葉で、今の僕の心を適当に表す日本語がないので、あえて「侠」という言葉を使った。どうも親子の情だけでは説明のつかない心の変化があるようなのだ。

 

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