私の7ルールを考えてみようかな・・・。 | 古民家の雑貨屋 アート工房 風 ふうさんの手しごと日和

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古民家の雑貨屋さん『アート工房 風』です。
岡山県の和気町で雑貨屋&クラフト工房をしています。
古民家をリノべして、沢山の雑貨を展示販売できるSHOPにしました。
隠れ家的な工房の日々の暮らし、ちょこっとのぞいて見てくださいな。

TVでやってる、各界で活躍する人の

『7ルール』。

 

私も考えてみようかな~。

 

なにかにつまずいた時、悩んだとき、

自分はどのようなルール(法則)

従っているかな?と思って・・・。

 

それを洗い出してみると意外な自分が

見えてくるかもしれない。

 

例えば・・・大好きな季節は夏!とか・・・

じゃあ、なんで夏が好きなのか?

 

青い空、白い雲、海の三点セットが

大好きだから・・・

 

海育ちでもないのに?・・・

 

子供のころ、南の山からに上ってくる入道雲を

見ていて、ああっ、あっちに海があるんだなーと

想像するだけで楽しかったから・・・とか

 

夏休み前の帰り道、重たいお道具箱やら

絵の具セットを抱えて片道2キロの通学路を

歩いて帰ってきたとき、お宮の向こうに白い雲

が立ち昇っていて、素晴らしくすがすがしい

気持ちになったから・・・とか

 

何かが『好き!』

とか

 

何かに『こだわる!』

とか

 

悩んだら『こう考える!』

とかは

 

自分の『くせ』だと思うのよね・・・

 

それを掘り下げていく作業は

『内観』に近いのではないかと・・・。

 

その『ルール』(法則)で生きようと

自分に課したのは、それなりの理由が

あったから・・・。

 

例えば・・・私の場合

 

『落ち込んでも、凹んでも、三日まで!』

と自分に決めている。

 

それ以上引きずると長引く可能性があるから。

 

以前は落ち込むと三か月、四か月と長期で

引きずる性格だった。

 

それがひどくなると『うつ状態』になる。

 

そう・・・私も最初から安定の5タイプだった

わけではない!

(むしろ神経質な6とか完璧主義な1とか・・・)

 

それじゃあ、とても生きていけない!

という苦難な人生だったから、途中で

無理やり自分の性格を変えた!

 

無理やりといういい方は語弊があるかもしれない。

 

『内省』による『内省』・・・

『反省に次ぐ反省』を繰り返して、

もうどん底まで自分を痛めつけた。

 

猛省した後に来る、『自分なんていない方がいい』

という消えてしまいたい衝動を乗り越え、

再び険しい崖を登り始めたときに、

目の前に光明が見えた・・・。

 

『所詮、この世のことはこの世で終わる。

 同じ人生なら嘆きながら生きるより、

 小さくてもいい幸せなモノを探して生きよう!』

 

まさに、稲刈り後の落穂を拾うがごとく、

小さな幸せ探し、良かった探しを始めた。

 

『見える目が有って良かった!

 今日はきれいな空が見れた!』

 

『つかめる手が有って良かった。

 目の前の花が摘めた!』

 

『歩ける足が有って良かった。

 今日も父と犬と散歩に行けた。』

 

人生、悲喜こもごも・・・どんな人にも

幸せもあれば、悲劇もある・・・

 

それを人に言うか、言わないか・・・だけ・・・

 

私は、自分の不愉快な話は

人に聞かせたくない・・・

 

自分も繰り返し思い出したくない・・・

 

いや、いつまでもその悲劇に

酔いしれて居たくない・・・。

 

悲劇のヒロイン・・・そんな人生はごめんだ!

 

かわいそうな私・・・

哀れな私・・・

 

だから、かまって!

だから、便宜をはかって!

だから、特別なご褒美を頂戴!

 

自ら物乞いになるような・・・

そんな人生は送りたくない!

 

だから、無理やりにでも自分の性格を

変えようと思った。

 

少なくとも、表面的には変えられると思った。

 

そう、まるで誰かほかの人格演じるように・・・。

(だって、私は素人でも役者だし!)

 

少なくとも周囲を騙せたらいい!

 

私が幸せそうに見えたらいい!

 

不幸の沼に沈んでる私を見て

楽しい思いをするのは、私をつぶしたいと

思ってる奴だけだろう・・・。

 

本当に大事にしてくれている人たちは

私が悲しむ姿を見て、より一層悲しい

気分になるじゃないか・・・。

 

そんなのダメだ!

 

それじゃあ、私は誰も幸せに出来ない!

 

自分も幸せに出来ないし、

周囲の人も幸せに出来ない!

 

だから、せめて周囲の人だけでも

『私が幸せそうに見えるようにしなきゃ!』

 

周囲の人を悲しませないためには、

自分が幸せそうに笑わなきゃ!

 

最初の笑顔は『周囲を騙すため…』

『自分は幸せだと、偽装するため…』

だったかもしれない・・・。

 

『たとえ、お風呂で一人泣くことがあっても

 絶対に人前では泣かない!』

 

だから表面だけしか見ない人には、

私のたどってきた壮絶な過去は

想像も出来ないだろう。

 

それでいい!

 

それでこそ、上手に騙せたといううこと・・・

 

そう・・・でもね・・・

 

この『演じること!』

 

実は、一番に騙されたのは『自分自身!』

 

今の自分は幸せなんだ!

そう騙されたのは私自身!

 

今では過去の様々な出来事は

長い人生の中のちょっとしたハプニング

になってしまった。

 

だって、過ぎ去った過去は、

『もう私に何も悪いことは出来ない!

 なんの影響力も持たない!』

 

これからの私を変えられるのは、

今の私の思考だけ!

 

今の私は沢山の『ある』を手にしている!

 

見える目が有り、歩ける足があり、

つかめる手がある!

 

ご飯を食べられる口があり、おいしいと

感じる舌がある・・・そこそこ健康でもいいじゃないか!

自分で歩けて、食べれているんだから!

 

そういえば、私は絵が描ける!

世界一の巨匠じゃな無くても、

高額で売れる有名作家じゃなくても

絵を描くことを楽しめればそれでいいじゃないか!

 

そういえば、私は料理が好きだ!

有名料理研究家じゃなくても、行列ができる

お店のシェフじゃなくても、『おいしい!』と

言って食べてくれる人が居ればいいじゃないか!

 

身の丈に合った幸せ。

 

足るを知る。

 

欠けた部分を探さない。

 

今目の前にあるものに感謝する。

 

それらの境地に至るためには、

『内省』により振り返りが必要だった。

 

それはまさに、傷口に自ら塩を

塗り込むがごとき苦痛を伴った。

 

苦行と言ってもいいかもしれない。

 

それを山にこもって滝にうたれるという

絶好な修行場で行うのではない。

 

雑多な日常をこなしながら、

日々の生活の場で行うのだ・・・。

 

『内省』は場所を選ばない。

『内観』は、環境を選ばない。

 

日々の生活の中にこそ、『悟り』

ちりばめられているということを知る。

 

『痛みを知る人』・・・それは

悲劇により痛みを知っている人のことではない。

 

自助努力ではどうすることも出来ない悲劇、

災害、事故、喪失などを経て、それでも

精いっぱい人生を生きようとするときに、

『内省』によって生まれる『痛み』。

 

つまり、自らの傷に、自ら塩を塗り込み

膿を出すために傷口を絞る『痛み』。

 

『猛省』と向き合う痛み。

 

一度自分を粉々に壊して、再度自分で

組みあがていく工程の『痛み』。

 

だから、私は問う・・・

 

長時間愚痴をまき散らして、泣き言を言い

かわいそうな私に浸り、特別な便宜を

求め続ける人たちに・・・

 

「本当に自分の人生を変えたいと思いますか?

 ならば、痛みと向き合う覚悟はありますか?」

 

「アナタの経験した過去の『痛み』ではありません。

 猛省するためにアナタが自ら傷口へ塩を塗る

 痛みに耐える覚悟を問うています・・・。

 その覚悟が出来ていないのなら、そこから先の話は

 何を聞いてもアナタの表面を滑り落ちるだけです・・・。」

 

滑り落ちるだけならいいが、恨みつらみを吐いた挙句

呪詛を飛ばすくらいのことをやりかねない。

 

少なくとも、裏垢で愚痴愚痴、あるいは悪評を拡散・・・。

 

だから、『内省』出来ない人は変われないのだ・・・。

 

痛い!痛い!といつまでもスネの擦り傷を抱えて

手を差し伸べてくれる人を待っているから・・・。

 

そして『どうしたの?』と手を差し伸べる人を

刺しにかかる。

 

まさにカエルの背に乗るサソリのごとく・・・。

 

「幸せになりたいのなら、運のいい人と付き合いなさい!

 運の悪い人は避けなさい!」

それが上策と林真理子さんも言われていた。

 

運の悪い人とは、『内省』しないで、手を差し伸べて

くれる人を踏み台にしようと狙うサソリのような人

ではないか?と思う・・・。

 

こういう人に関わったから、過去の私の悲劇は

起こったのだと、今ならわかる・・・。

 

セブンルールの一つに、

『迷ったら内観、内省する!』は

入れると思う!・・・私。