長野県のほぼ中央で、長和町と下諏訪町を結ぶ峠道は険しい坂道やつづら折りのカーブが続く山道です。
和田峠は、上田地方から諏訪方面に抜ける幹線道路として交通量が多い峠道です。
長野県の東側から諏訪湖方面へ向かうには、高速道路を使って長野方面に向かい大きく迂回するか、この峠を越えるかの選択になります。
距離的には圧倒的に峠を越えるほうが近いのですが、山道のため、所要時間は高速を使うのとほぼ同じです。
この和田峠を走っていると「黒耀・黒耀石」といった文字を沢山見かけます。
長和町の国道152号線像にある道の駅の名前は「マルシェ黒耀」、黒耀の名前がつきます。
先日、無料開放になった新和田トンネルに続く橋下には「星降る里の黒耀水」と名付けられた湧水が、この湧き水は黒耀水とも呼ばれています。
広い駐車場の中央に湧き水が溢れ出ています。
水汲みをされる方がいらっしゃいました。
黒耀水は、なめらかな口触りで、黒耀石が乗せられた給水塔の四方から常に水が湧き出ています。
暑い日には冷たくて美味しい水が好きなだけ飲めますし、冬でも凍ることは有りません。
小川に新緑の白樺、水車がある風景は絵になりそうです。
黒耀水が湧き出る広場の横には、茅葺きのバス停がありました。
「黒耀水」の水汲み広場の横に立てられている「日本遺産」のオブジェは、古代人が手に黒い石を持っています。
これが黒耀石です。
小さな増ですが、手に黒耀石を携えていました。
旧石器時代、和田峠周辺は日本でも有数の品質を誇る黒耀石の産地でした。
旧石器時代の人々は、動物の骨や石を使って狩猟生活をしてたといわれており、長野県の野尻湖周辺では動物の骨と一緒に石器が発見されています。
時代が進むと石より鋭利な道具を求めて黒耀石を使うようになります。
刃物や矢じりなどを作るため、当時の人々は黒耀石を求め和田峠周辺に集まってきて、黒耀石を持ち帰りました。
その範囲は四方に及び、240km離れた場所まで広がっていました。
そんな、和田峠の旧道(旧中山道)を登っていくと茅葺きの建物が現れます。
江戸時代に作られた旅人の休憩所です。
和田峠は五街道と呼ばれる街道の一つ、中山道です。
険しい山道は、中山道の道中で碓氷峠と並んで街道の難所と言われていました。
往時は、峠越えで疲れた旅人の休憩施設として「接待」とよばれていました。
建物の中にはかまどや暖を取るための囲炉裏があり、疲れた旅人が休憩できる施設になっていました。
案内板によると旅人には粥と焚き火を、牛や馬には煮麦が振る舞われ、峠越えをサポートしていたようです。
それだけ峠越えをする人馬には負担が大きかったということでしょうか。
「接待」の反対側のは林の中にも湧き水が流れ出ていました。
中山道の案内板には「江戸方・接待・和田宿」と表示されていました。
山道を登りきると白樺湖から美ヶ原台上まで繋がるビーナスラインにでました。
霧ヶ峰高原の文字も見えます。
ビーナスラインの手前の道路右側に、旧中山道にそって石張りが施されていました。
この道沿いで、土の表面をよく見ると、黒くて表面が光る、ガラスの破片のような小石をいくつか見つけることができます。
鋭く割れて尖って表面が輝いている黒い小石、これが黒耀石です。
現在、採掘は禁止されていますが、古い時代から採掘された破片がいまでも残っています。
目を凝らして探せばいくつか見つけることが出来ますよ。
10分程探してみただけでこれだけ見つけることが出来ました。
大きさは1円玉と比べていただければ想像できるかと思いますが、小さなかけらです。
街道沿いの木立の中に小さな祠がありました。
苔むして歴史を感じます。
石器時代の昔から、黒耀石を求めたり、五街道の一つとしての役割あったりと大勢の人々が行き来した和田峠の道端に転がっている小石のお話でした。