この間「こんな痛いことも熱いこともやったことないし・・・鍼は痛いし、お灸は熱いですよね」
とある患者さんから言われた。
「そうですよね・・・」、と返答したが、よくよく考えると(痛い熱いなどの)感覚を現代人は普段から感じていないのかもしれないと思った。
”熱い”や”痛い”は、真皮層にあるポリモーダル受容器が感じるのだが、その他にも様々な受容器が皮膚には存在する。
快適な生活とは裏腹に人体に装備された受容器を使う機会が少なくなっているのではないか?
”使われないものから劣ってくる”とは、運動生理学的な視点では当たり前の言葉であり、
実際、”廃用症候群”という言葉通り、寝たきりなど長期間の安静臥床により、運動機能だけではなく、内蔵や脳まで機能が衰えてくるのは、ご存じのとおりである。
このような極端な状態だけではなく、文明や科学の発展とともに日常生活がより過ごしやすくなってはいるが、その一方、身体に備わった生きるための機能を使わない代償があるのではないかと危惧している。
エアコンやヒーター、車が無かった時代には、冬は寒く、夏は暑く、よく歩き、ケガや火傷も今以上に多かったし、
その都度、体のあらゆる感覚器が反応し、もって生まれた自然治癒力のようなものが働く機会が多かったろうと思われる。
鍼や灸の治療は、皮膚などにあるポリモーダル受容器を刺激し、その刺激が電気や化学的反応とし最終的に脳に伝わり、そこから身体に様々な指令が下り、身体が良くなるように働く機構を利用している。
普段から熱さや痛みのない生活をしている現代人はこの機構が退化しているのではないか?
その為、鍼や灸などの治療が効きにくく、さらにそのなれない刺激に敏感になっているはないか?
ではこのような知覚などの感覚器を刺激することは必要であろうか?
私は”必要”だと考えている。
必要と考えているが、全ての人が鍼灸やツボ押しが必要だとは思わない。
例えば、身体を動かすことということも、感覚器の刺激になる。
筋肉には筋紡錘と腱紡錘と感覚受容器が存在し、筋肉が伸びたり、伸びることによる張力を感じる受容器があるので、
筋肉を伸縮させることで脳を刺激することが十分可能である。
この間、とあるスーパー銭湯でサウナに入っているとサウナ内のテレビが非常に騒がしく感じ、サウナに集中できなかった。
以前は、熱さを紛らわすためにテレビを見ていたが、サウナに慣れてくると逆に邪魔なものであり、その後の”整い”にも大きく影響することが分かってきた。
それは、サウナの熱さを受け入れ、「熱いな~」と脳が感じることが”整う”には必要だということである。
熱さと対峙し、神経をその熱さに集中することで、脳が極限の熱さストレスを受容することが、その後の水風呂、外気浴→整う、までの一連の”儀式”をスムーズに効率的にすすめるポイントだと感じている。
現在、多くの文明の利器や医薬品があり、人間の生活はより良いものになっている。
ただ、人に備わった感覚器を刺激することで、本来の”生き物”としての自分を見つめることも必要なのではないだろうか?
