「牛泥棒」(1943年作品)感想 | 深層昭和帯

深層昭和帯

映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

ウィリアム・A・ウェルマン監督によるアメリカの西部劇映画。出演はヘンリー・フォンダ、ダナ・アンドリュース、メアリー・ベス・ヒューズ。

 

 

<あらすじ>

 

ネバダ州で、牧場主が殺され、牛が盗まれる事件が起きる。激怒した町の男たちは、町長の制止を振り切って自警団によるリンチで解決を図ろうとする。

 

ちょうど町にやってきていた流れ者のギル・カーターと相棒のアート・クロフトも自警団に同行し、マーティン、フアン、アルヴァの3人を捕まえた。3人は無実を主張。裁判による正当な解決を訴える町の長老デイヴィスは何とか町民を落ち着かせようとするがうまくいかない。

 

デイヴィスに対し、カーターとクロフトなども裁判をやるべきだと主張するが、いきり立つ町民たちはこれを押し切って3人を絞首刑にした。

 

そこに街の保安官が現れた。保安官はちゃんと事件を捜査しており、死んだと思われていた牧場主が一命をとりとめて生きていること、犯人が逮捕されたことを町の人間に伝えた。自警団が私刑にした3人は冤罪だったのだ。

 

呆然自失となった町民たちに、カーターはマーティンの遺書を読み聞かせた。

 

<雑感>

 

死刑廃止論の根拠の大本は、私刑がまかり通っていた時代への忌避があって、冤罪で多くの人間が無実のまま処刑された歴史がある。冤罪というのは、たとえ裁判をやろうとも起こり得ることなので、死刑廃止論者は私刑廃止論者より先鋭的な人間たちだ。

 

人間のやることなど不備だらけなので、死刑廃止論があるのは認めるし、社会には必要な議論だとは思うのだが、それが唯一絶対の答えだと勘違いして、この映画の自警団のようにいきり立って死刑廃止を訴える人間とは距離を置くようにしている。

 

罪に相応しい罰がどんなものなのかを議論することは必要だとしても、罰によって被害者は救われないだの、罰によって加害者は変わらないだの、罰則を否定するようになると、それは必ず罪を罪と認めなくなるおかしな心象を生み出す。

 

ちょうど現在のアメリカ社会のように。アメリカではボストンなどリベラル系市長が誕生した地域は、100ドル以下なら物を盗んでいいだの、麻薬をやってもいいだの、重い刑罰を与えても刑務所がいっぱいになるだけだから有罪判決を受けても収監しなくていいだの、社会の在り方を根底から覆すような議論がまかり通るようになる。

 

だから、この映画を見て、それが「私刑廃止」を訴えているだけで、決して冤罪を理由に「死刑廃止」を訴えているわけではないと理解しないと、結局はリベラリストがこの映画の自警団のような独りよがりで取り返しのつかないことをしでかす人間集団になってしまうのだ。

 

最後の手紙の朗読のシーンにあるように、自分がそう思い込んだ正義を振りかざすのではなく、落ち着いて物事を考えねばならないのだ。もう一度書いておくが、現在のリベラリストこそが、この映画に出てくる自警団なのだ。

 

☆3.6。面白い作品だが、おそらく8割がた勘違いしそうな内容でもある。