「新造人間キャシャーン」(1973年作品)第33~35話 最終回 感想 | 深層昭和帯

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映画、ドラマ、アニメ、特撮など映像作品の感想を中心に書いています。

原作:吉田竜夫、総監督:笹川ひろし、制作:タツノコプロ。

 

 

#33 スワニー危機一髪

 

トレーヌ国は市民が一丸となってアンドロ軍団に対抗していた。そんなトレーヌ国に、大規模な攻撃が加えられるという情報を持ってキャシャーンのもとへ飛んだスワニーは、トレーヌ国の兵士に見つかって捕まってしまう。これを知ったブライキング・ボスは、攻撃中止と交換にスワニーを取り戻そうとするが、市民は聞き入れない。

 

#34 キャシャーン対ロボットエース

 

ロボット島に捕われている東博士は、ついにアンドロ軍団を壊滅させる秘密兵器を考案した。だがその一方で、ブライキング・ボスの命令によってキャシャーンを倒すためのロボット“ロボットエース”を作らされていた。博士を救うため、キャシャーンは最強の敵ロボットエースと対決する。

 

#35 地球最大の決戦

 

キャシャーンによって救出された東博士は、アンドロ軍団を壊滅させる兵器をあと少しで完成させようとしていた。だが、東博士が最終兵器を作っていることを知り、総攻撃に出るブライキング・ボス。人類とアンドロ軍団、そしてキャシャーンとブライキング・ボスとの、世界の命運をかけた最後の戦いの火蓋が切られる。

 

<雑感>

 

以前「キャシャーン Sins」という作品を視聴したことがあったのだが、正直オレには合わなかった。オレが知ってるキャシャーンとあまりに違っていたためだ。それに、昨今のリメイク版はアニソンがダメなことが多い。「キャシャーン Sins」もそれほど良くなかった。

 

平成という時代は、昭和を否定することで成り立っていた側面があったので、昭和っぽいアニソンはあえて避けていたのだと思うが、令和になって昭和のアニソンが再評価されないのは、怠慢じゃないかな。時代というのは、否定と再評価を繰り返して評価が定まっていくものなのだ。

 

いまだに昭和批判に明け暮れている昨今は、いったいどういう理由で平成にしがみついているのだろう。別に昭和のように根底から否定されるようなことはしなくてもいいが、「平成期のアニソンは男の子向けのアニメにはそぐわないものが多かった」とか、「子供がすぐに覚えられる歌が少なかった」とかあってもよさそうなものなのに。

 

「否定と再評価の繰り返しが時代の評価をより正確にしていく」のであって、肯定か否定かではないんだな。それが歴史というものだから、すべての事実は図書館で保存し、長く長く吟味の対象にしなければならないのだ。焚書が悪なのは、「肯定か否定」という一時的な価値観で物事の評価を定めてしまうからだ。

 

それが客観性を熟成させる。ある時代に生きた一人の人間のものの見方や価値観など偏っているに決まっている。何世代にも渡ってあらゆる角度から評価されるからこそ歴史は正確になる。

 

昭和のアニソンも、平成時代には時代遅れなものとして否定され、いわゆるアーティストによる楽曲を採用してきたものだが、そろそろ昭和のアニソンは再評価されるべきではなかろうか?