「暗殺の森」(1970年作品)感想 | 深層昭和帯

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ベルナルド・ベルトルッチ監督によるイタリア・フランス・西ドイツの文芸映画。出演はジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ。

 

 

<あらすじ>

 

幼いころ同性愛者リーノに襲われ、その人物を殺してしまった哲学講師のマルチェロは、平凡な自分を確立するために盲目の男の導きでファシスト党員となった。彼は、大学にいるかつての恩師ルカ・クアドリ教授を、反ファシストの指導者として内偵することになった。

 

パリでクアドリ教授に近づいたマルチェロは、その妻アンナに魅了され、アンナもまたマルチェロを誘惑した。やがて組織から、クアドリ教授の暗殺指令が届き、マルチェロは監視されるようになった。教授がサヴォイアの森にある別荘に出掛けるというので、その途中で彼を暗殺することが決まった。アンナはマルチェロの新妻ジュリアが引き留める。

 

ところが、アンナは教授についてやってきた。暗殺者は教授の車を止めると、車外に出てきた教授をメッタ刺しにする。驚いたアンナはマルチェロに助けを求めるが、彼は恐怖のあまり身動きできない。森へと逃げたアンナだったが、銃弾に倒れて死んだ。マルチェロの監視者は、彼を卑怯者と罵った。

 

戦争は終わろうとしていた。マルチェロもジュリアも活気のない生活を送っていた。そしてマルチェロは、かつて自分を強姦して、自分に殺されたはずの男色家リーノの姿を発見する。彼は死んでいなかったのだ。

 

彼は、リーノを殺したことがトラウマとなり、それを克服するためにブルジョアの娘ジュリアと結婚し、ファシズムに傾倒したが、リーノは死んでおらず、ブルジョワジーはあえなく失われ、ファシズムさえも敗北しようとしていた。彼はアイデンティティを失い呆然とする。

 

<雑感>

 

こういう映画を見てきたおかげで、哲学にも興味を持つようになった。この作品は、ファシズムの幼稚さを皮肉った内容なのだが、左翼映画と断じるのは早計なのである。というのも、マルチェロが強姦されたトラウマからファシストになったように、ブルジョワ出身の後ろめたさから左翼になる人間が後を絶たないからだ。

 

右翼と左翼は、簡単に立場が入れ替わる。哲学カテゴリの記事に何度も書いてきたように、絶対的に正しい答えはこの世には存在しない。ある正答が、10年後に誤答になっていることなどよくあることだ。しかも、一度誤答と決まったものが、また10年後に再評価されたりする。

 

正しさというのはそういうものなのだ。だからこそ、絶対的な正しさを追い求められるのは科学だけと決まっており、人間の振る舞いに正答は存在しない。

 

東大に入っても、あるいは東大の教授になったとしても、これがわからない奴がたくさんいる。自由主義と共産主義は相対するものではないという前提すら理解できない人間が東大教授にはたくさんいるのだ。文系は相手にするだけ無駄なバカばかりといっていい。

 

愚痴はこの辺にしておくが、ファシズムに人間としての正しい形を求めても、コミュニズムに人間としての正しい形を求めても、それは必ず失敗する。人間は自由の中で決断し、他人の決断を尊重するしかないのだ。

 

マルチェロが恩師を殺されるのを黙認することと、安倍晋三が殺されるのを黙認するのはまったく同じなのである。哲学者のルカ・クアドリ教授がマルチェロに言い放った言葉、「君はいつか自分の主義を捨てる日が来るだろうよ」とは、すべての主義主張に向けられた言葉で、ファシストだけが対象ではない。でもこれも左翼には理解できないのである。

 

☆5.0。久しぶりの鑑賞。ベルトルッチ監督は素晴らしい。