「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984年作品)感想 | 深層昭和帯

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監督・脚本:押井守、制作:スタジオぴえろ。

 

<あらすじ>

友引高校学園祭前日、生徒たちは泊まり込みで最後の追い込みをかけていた。夜が明ければ学園祭当日。誰もがそう信じて準備を行っている。しかし彼らは同じ時間を何度も繰り返していたのだ。

そのことに気づいた面堂終太郎は自宅に隠し持っていたハリアー II戦闘機で友引町全体を俯瞰。するとそこは巨大な亀の甲羅の上に乗っているだけと分かった。彼らが現実を知ったその日から世界は崩壊。友引町の日常は壊れ始めて町は廃墟と化した。

その状態を利用して藤波竜之介一家は浜茶屋をオープン。面堂はレオパルドで砲撃を開始。他の面々は物資だけが豊富に供給される退屈な日常をひたすら繰り返す毎日をただ漫然と生きていた。この状態を記録すべく眼鏡は友引全史の編纂を開始した。

面堂とサクラによって可視化された妖魔夢邪鬼は、これがラムの世界であることを告白。彼がラッパを吹き鳴らすと獏が出現してこの作り物の夢の世界を食い尽くしていった。こうして友引町は夢の空間から解放され、元の時間軸へと戻された。

<雑感>

多くの人に影響を与えた作品で、その中の何人かはのちに表現する立場になっていった。名前を挙げていくときりがないほど大勢いる。

当時テレビシリーズもまだ続いていたのだが、押井はすでにテレビシリーズの監督は交代しており、押井の個性で作られていたテレビ版の「うる星やつら」はごく普通のラブコメに成り下がっていた。押井演出の面白さに興味を持って視聴を続けていた層はテレビ版を見限り、営為製作中だというこの劇場版を待ち望んでいたものだ。

語られつくした感がある作品ではあるが、ほぼ押井の創作であるアニメ版の眼鏡が語る「友引全史」朗読シーンのような演出ができる監督はいまだ現れていない。まさに独特なのである。古い作品と毛嫌いをせず、見ておいて損はない傑作映画だ。

劇中で友引高校の建物が2階建てなのか4階建てなのかと議論になり、なぜかスタッフが謝罪する事件も起きたが、あれは別に間違って4階建てにしたわけじゃないのになぜ謝ったのかいまだによくわからない。プロデューサーが勝手によくわからないまま謝罪だけしたのかも。

アニメの中の高校の文化祭シーンがいまのようなあり得ないほど凝ったものになったのは間違いなくこの作品の影響である。

 

「うる星やつら オンリー・ユー」を大変気に入っていた原作者の高橋留美子だが、テレビシリーズのあまりの逸脱ぶりに憤慨。小学館を通じてテレビ局側に激しく抗議していた。

 

原作改変にも限度があるだろうと押井守を諫めるつもりだったようだが、なにせ押井もあの性格である。抗議をされて引き下がるわけもなく、プロデューサーに好かれるタチでもない。テレビ局側もアニメ版「うる星やつら」を成功させた功労者なので引き留めたかったのだろうが、折れないなら辞めてもらうしかないとなったようである。

 

ただ、「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の制作は引き続き押井に任され、押井もどうせ最後だからと好き勝手やった。もはや完全に押井作品であり、高橋留美子の面影はキャラクター達だけである。高橋留美子は呆れ、やがて達観。押井がいつまでもネチネチと「オレは原作者に蛇蝎のように嫌われた」と言い続けるものだから、火消しに追われることになる。

 

高橋留美子は「原作改変にも限度がある。とくに勝手に最終回を創造するような真似は困る」との抗議だったのだが、アニメを面白くするのはアニメ監督の仕事、譲れないところがあったのだろう。押井はタイトなスケジュールの影響で、自ら降板する形を取っている。

 

原作とアニメ制作側の対立は昔からあり、高橋留美子は比較的寛容だったのだが、押井守の逸脱ぶりがすさまじく、これは原作ファンの嫌がらせが逆に押井を奮起させた面があると思っている。一方で、原作無視が横行するようになり、一向に原作を消化できないことへの苛立ちは原作ファンの中に大きくあった。

 

後に押井作品の脚本を手掛けるようになる伊藤和典は、押井が抜擢した人物である。

 

アニメを面白くするのはあくまでアニメの監督であって原作者ではない。漫画の現場に漫画のスタッフがいるように、アニメの現場にはアニメのスタッフがいる。

 

そこで人材の発掘や登用がなされていくことで、制作スキルが上がっていくことにもなる。原作改変は悪との考えは行き過ぎなのだ。ただ、限度ってものはあるし、改変した上につまらないってこともある。

 

☆5.0。アニメ作品として破格の影響を遺した映画だった。