吉備内親王 | あすかのブログ

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気がついたことを記録に残した
日記帳です。

謎解き古代史妄想編に、戻ります。


ゴールデンウイークは、晴れの天気が続いてますが、肌寒さがぬけませんね。
ここは、夜になると雨が降って、雷さまが鳴っています。


時の移り変わりは、早いもので、奈良の旅から、ひと月たとうとしています。

私は、毎日お休みの人ですから、自分で毎日をどんな日に決めていくかが出来る愉快な身分になりました。


…前置き長し?(笑)


東院堂の涙の理由を探しあてたという話でした。


元明天皇の生涯を一本の縦糸にして、いくつの歳で、どんなことが起き、その時代にいた人物が何歳の時に出会っているのかと横糸に編んでみていくと…

19歳で草壁皇子に嫁ぎ、20歳で元正天皇を産む。次に、文武天皇を産み、三人めの子は、吉備内親王。


もし、結婚前に大津皇子と恋人になっていたら、元正天皇は、もしかしたらと思ってしまいました。

が!
吉備内親王の生まれた年を知っては、もっと驚いたのです。

686年です。

この年に、天武天皇が亡くなり、直ぐに大津皇子が謀反のかどで死を賜る…

このとき、持統は天皇だったのでしょうか。

でも、第一皇子の草壁に謀反したかどで草壁皇子の母である持統天皇から死を賜ると伝えられています。


持統天皇が即位したのは、藤原邸でなし崩しの状況でなされたと聞いたこともあります。

皇太子を差し置いて、あっという間に母親が天皇に…?
草壁皇子が病弱であったという証拠にはなります。
すると、吉備内親王の父親って…


これは、知る人は言えないことではないの…



でも、そう思えば、私のなかでは、ものすごく納得出来てしまうのです。





東院堂の観音像は、母親の生涯の傷を慰め、父親の菩提を弔うために作られたのでしょうか。



薬師寺に眠る祈りを、誰が私に、囁いてくれたのでしょうか…
東院堂の前で、訳がわからない涙があふれたあの日の記憶は、これだったのかと思うのです。


あ~。
ちょっと、格好つけすぎましたか…

(苦笑)