続きです!


ちょっと前記事の補足として書くと、

「こんな僕のこと誰がわかる?一生わからない。わからない!」


というゆづの心の叫び…



これってね、誰もがそうじゃんね

誰もが抱いたことのある思いだと思っています



私さ、こうやって毎日毎日ブログを8年超書いて…それは一人の人を想い続ける綴りでもあって


そんな中で、いつしか…ゆづのことをわかってあげられない苦しみみたいなところに行き着くようになって


実はもう何年も前から、コメ欄では『ゆづと同じように生きて、ゆづと同じ経験をして、ゆづと同じ人生を歩んでないと、ゆづの気持ちはわからないと思っている。わかってあげられないんだよ』と漏らしてきた

それがなんか…自分の中ではもどかしいというか…どうしようもなくて、苦しいところではあったんだよね

だってこうやって毎日書いているわけだから

しかも一言二言書くというレベルじゃなくてww毎日長い文章にして、一つの品のようにして、他者さまに読んでもらえるところまで完成させなきゃならない
(駄文極まりないですがw)


やっぱりそういう中で行き着くんだよね


どんなに書いても、想いを馳せても、ゆづの気持ちはわかってあげられない

だって同じ経験をしてないから



でも同時にコメ欄ではこうも書いてきてて

『わかってあげられないけれども、でも、寄り添うことはできるじゃんね。人ってそういう想いの紡ぎの中で生かされてるんだよね』と


これは今も私の中にはあり続ける想いであって、最終的にはここに至る



そしてね、たとえば…

ゆづと同じ経験をしなければ、その内面はわかってあげられないとは言えども…性格や持って生まれた性質によっては、同じ経験をしてもゆづと同じ心境になるかはわからないとも思っている


要は、やっぱり自分は他者にはなれないし、他者の気持ちを100%寸分たがわずに理解してあげることなど…人間にはそもそも不可能なんだなと思うんだよね


言ってみれば、私が歩んできた人生や、そこで経験してきたこと、幼少期からの家庭環境含めて、自分の中にあり続ける傷や心の涙のようなものは、きっと誰にもわからないんだよね




ゆづもわかっているはずなの


たとえば、被災地を訪れて、自分は何も失ってないから…と心が痛そうに話すけれど、そこには『理解してあげられない』『何も失ってない僕にはすべて失った人の気持ちは理解してあげられない』という思いがあるからで…それを身をもって経験しているはずだから


だけれども、寄り添っているじゃんね

10代の頃から…ずっとずっと、ずーーーーーっと寄り添い続けている


その姿勢と生き方がもう一つの答えなんだよね




そういう中でも、

ゆづが「こんな僕のこと誰がわかる?一生わからない。わからない!」と私たちに伝えてくれたこと


私は受けとめたいなと思っているし、そのゆづの心を胸に抱きました



そういう思いも、何もかも含めてゆづが好きだからねって思っています






阿修羅ちゃんが終わって

スクリーンに白黒の世界のゆづが映る

なんとなくマスクを彷彿とさせる手の動き…


なんだかこの時のBGMは…思考が酩酊しているような…グワングワンと脳内が回っているようなものだった
 
 

もう疲れた
疲れてもう、動けない…

動きたくなんかない



消え入りそうなか細い声で…過去の当時のゆづはこんな状態だった時があったんだなと想像する

なんとなくね、このセリフを聞いた時は、2020年のどん底の時が重なって感じたよ

2020年全日本で明かされた衝撃の独白で…「疲れたなって…もう一人やだって思ったんですよ」って、泣きそうになりながら言ったゆづの姿が思い出された




できるよ
頑張れるよ


もう頑張ったでしょ
頑張ったよね

休みたい
もう疲れた

休みたいのに…

弱い心と、強いプライドが、いつも邪魔をする
 

『弱い心』とは…“逃げることの方が怖い”という思いかな…

サザンカの歌詞と重なったよ

この時、スクリーンに映し出されたゆづが、手で顔を覆ったり、顔の反面だけ影が入ったりして…それを見ていると、なんとなく私も心が酩酊状態に引きずり込まれる感覚があって…

と同時に、『あ…ファントム来るかも…』って現地で思ったのを覚えている



 
強いよ
どんなことだって乗り越えられるよ

全然、怖くなんかない



怖いよ
何もできやしない

できない僕は…一人だ



できない自分は意味がない…存在している価値も理由もないと思っていたのかな

これはやはり、できないことをできるようにして生きてきたゆづの人生あっての思考だよね

この時、スクリーンに映し出されているのが、前半の記事で書いた太陽と月について話すゆづの後ろに映っているゆづと同じなんだよね

太陽の話をしている時は、左手で左半面の顔を覆っている

月の話をしている時は、右手で右反面の顔を覆っていた

それが再び現れたのが、この対話のシーンだった

前半の流れが後半のここに繋がってくる箇所でもあるのだろうと思います



ちゃんといるよ…
振り返ってよ

みんな、待ってるよ


動けない…

怖い…
僕は、何もできない…


 
うん、知ってるよ

でも、届けたいんでしょ?
動けないけど、動きたいんでしょ?


僕は、できない…

けど…


 
全部、知ってるよ
誰だと思ってるの?


誰?


僕は、あったかい世界の君


あったかい世界?


幼い頃からできないことをできるようにして、そこにはあたたかい想いと言葉が溢れた

ゆづはそれが大好きだった

その世界が大好きだった


きっと根源は、誰かが幸せになってくれることや喜んでくれること、褒められること、それがゆづの幸せであり喜びでもあったということなんだと思うんだよね


“あったかい世界の君”とは、ゆづの導であり…目指すもの…手をかざしたくなるような…眩い光でもある

ゆづの道のりから生まれた存在なので、ゆづの中にいることは確かなんだよね


もしかしたら、それは『夢』かもしれないね

夢という存在…




こんな僕じゃ、なれない
できない僕じゃ、なれない

僕には、何もない
足りないものしかない
 
その足りないものを望んだら、僕じゃないものを見つけた

僕はそれになりたい

僕はみんなに、僕に求めてもらいたい

ちゃんと見てもらいたい


君に手を伸ばす
君になりたいんだ
 
こんな何もできない僕でも君となら


現地で聞いている時にマスカレイドがかかって…

やっぱりゆづにとっても大きな意味のあるプログラムなんだとあらためて思いました

今振り返っても、あの時演じることには深い意味があったと感じています

 


このマスカレイドからオペラ座の怪人までの流れは…4Aにひとりで挑み続けた数年間を表しているのか…それとも北京五輪に発つ前のことを表しているのか…それともすべてを含めた数年間を表しているのか…


どのシーンにも当てはまる言葉たちなので、いろいろ想像します





白ファントムのゆづが出てきて


シャンデリアがゆらゆらと揺れるのが、まるでメトロノームのようで…少し催眠術をかけられるようでもあり…始まりへのカウントダウンのようだった




今でも思うけれど、あの両手の巨大なオブジェはどういう意味を表しているのかなと


GIFT開演前、最初に見た時は少し不気味で…事前に抱いていたGIFTのイメージとは似つかわしくないように感じて…


なんだか支配的な感じがしたんだよね



ゆづがオペラ座の怪人を舞っている時は、そのオブジェが場(リンク)を支配しているようにも見えて…それは操っているようにも感じた



同時に、それがあるから力を出せる…



そんなふうにも見えてね




あの両手がすごく芸術的に見えたというか…


ゆづの演技で芸術に昇華されたなと思いました




本質的な自分に気づき、大切にしながらも、生きていくためには時として仮面は大事


仮面と、誰かの手中にあるような感覚…それと共に生きていくことは人として自然な姿でもあるのかもしれない



大いなる意思と力を感じながら、人は生かされているんだろう…



そんなことを思いました





今日はここまでしか書けなかった!


急ぎ足で駆け抜けました!(。>ㅅ<。)




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