草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ -36ページ目

草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

自虐…それは資本の国家を愛すること。。。自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!
The Rising Multitude

 中国共産党の蛮行を許さない。全く正しい。ウイグルのムスリムの権利を守れ!人民解放軍は新疆から立ち去れ!全く正しい。しかし、そう叫んでいたはずの愛国保守派の中に、いまや、偽ユダヤ人(=シオニスト)国家によるムスリム大虐殺を「無差別テロに対する正義の戦争」として、全面支援しようとしている連中がいる。一体全体、この連中には背骨というものがあるのだろうか。以下、東トルキスタンについての少し前のエントリーである。

 

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先日、古いエントリーを再投稿したが、そこで引用した論文(野口信彦「東トルキスタン共和国の成立と崩壊」『理論研究誌 季刊中国』 )を再読して改めて気づいた。

 

《より多くの権益を獲得するために、スターリンは中国共産党への援助をしないという約束のほかに、東トルキスタン共和国に援助しない、国民党政府による東トルキスタン民族独立運動への反乱平定権を認める、などを約束し、東トルキスタン共和国の歴史的運命をソ連の国益の犠牲にしたのである。この態度豹変・裏切りが、現在の新疆における分離・独立運動の遠因ともなっているのである。》(同上)

 

件のエントリーでも引用した部分であるが、おそらく、これにもとづいて、別のエントリーで次のように書いたのだった。

《二度目の東トルキスタン共和国は、ソ連の支援下に、中華民国政府からの独立を勝ち取ったのもつかの間、ソ連の裏切りにより、民国が設置した新疆省政府と合同(新疆省連合政府)させられました。しかし、両派はすぐに分裂し、トルキスタン側は、イリ地方を中心とする元の支配地に戻り、「保衛新疆和平民主同盟」を組織し、自治を宣言しました。》

「ウイグル自治区とは中国が実効支配してる植民地ですか?」

確かに、ソ連国家資本主義(=スターリニスト体制)の犯罪性は目に余るものがあるが、野口論文には、次のような記述もある。

《ドイツ降伏後、中ソの会談があった。結局、外モンゴルの独立問題については両国ともに固執したが、結局、国民政府が譲歩し、ソ連が中国共産党と東トルキスタン共和国政府にいっさいの援助をしないこと、中国の東北における主権を承認すること、中国への援助は国民政府を相手に実施することを条件に、戦後、外モンゴルにおける独立に関する国民投票の実施を認め、外モンゴル問題に決着をつけた。》(同上)

つまり、国民党政府は、モンゴルの半分をソ連に譲る代わりに、東トルキスタンに対する支配権を要求したのである。今日の中国共産党による支配の原因を作ったという点では、国民党政府の責任も小さくはないのである。

 

もちろん、最悪の犯罪者集団は、現に今、東トルキスタンの労働する諸個人を蹂躙している中国共産党であることは言うまでもない。

 

しかし、そのような犯罪行為の梅雨払いをしたという意味では、ソ連と並んで中国国民党の名も、我々の心に刻み付ける必要がある。

 

 

Johnny Thunders & the Heartbreakers: Chinese Rocks

 

自己規律と自己制御の権利と義務を放棄して自己の身体、生命の処遇を他人の意思にゆだねることは、尊重されるべき個人としての資格を失うことを意味します。個人としての責任と義務を放棄する「左翼全体主義」を自己批判することなく、この考え方に無理やり「個人の尊厳」という考えを接ぎ木したらどうなるか、「個人」ではないもの、すなわち自己規律・自己制御の主体ではないものに「尊厳」を認めてしまうことになります。
 
自分で自分をコントロールする習慣を持たず、他人の言いなりになってきた人間、あるいは「人を尊重するということはその人のために自分を殺すことだ」と教えられてきた人間がそのまま偽の「個人」として「尊厳」を与えられてしまうとしたら、それは子ども染みた我儘を放任する結果になるのは必然です。
 
偽「個人」たちは、他者からの懲罰やら暴力による以外に、内省的に自分を抑えるすべを知らないし、「俺を尊重するってことは、お前が俺の犠牲になるってことだろう」と考えるでしょう。
 
外圧や暴力に支配されることなく自分の理性で自分を制御するように努力すること、そのような各自の努力を互いに尊重すること、つまり他人の自己制御の努力を妨害しないだけでなく、自分の自己制御の努力を放棄しないこと、これがまず称揚されるべき規範であり、これに反する「左翼全体主義」(滅私奉公)は、間違った思想として徹底的に批判されるべきなのです。
 
さて、僕は前々稿で「自己を肯定できない人間は他者を肯定・尊重できません」と書きました。これは僕の勝手な思いを書いたものではなく、教育心理学等で科学的に明らかにされている事柄なのです。
 
Self-esteem自己有用感(これはかなり意訳ですが、単なるナルシシズムや自己愛との区別のためにこの訳語を用いる人も少なくないそうです)がキーワードです。この自己有用感が確立していない人は、他人の価値も認められず、簡単に人を傷つけてしまう傾向などが強いといいます。
 
自己有用感の確立のためには、他人による存在承認が不可欠だそうです。「君がいてくれるだけで私は嬉しい」「あなたは私にとって他の人には代えられない存在意義のある人だ」という他者からの承認によって自己有用感は確立していきます。
 
しかし、こうした他者からの承認は、実際に他者に貢献し信頼を勝ち取る中でしか、受け取ることのできないものです。たいていの親はわが子に無条件にこのような承認を与えますが、それだけでは不十分で、親以外の他者からの承認が決定的に重要なようです。無条件の承認ではなくてやはり《個人》としての資格における承認、自己規律と他者への貢献による存在意義の承認が重要なわけです。
 
このように、「個人の尊厳を守りすぎたから、自己中心主義的な人間が増えた」わけではなく、むしろ《個人》の尊厳を口先では守ると言いながら実際にはないがしろにしてきたから、「個人主義」の表看板のもとに「サヨク私民主義」を実践してきたから、自己中心主義的な人間が増えたのです。
 
そしてこの「サヨク私民主義」は、他ならぬ「左翼全体主義」(「愛国心」と「集団意識」)の鬼子としてこの世に生まれてきたものなのです。
 
したがって、「サヨク私民主義」を根絶するには、まずその生みの親である「左翼全体主義」(「愛国心」と「集団意識」)を批判・克服しなくてはならないのです。
 
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「ゾウの檻」、囚われていたのは…本当に巨大な像でした。
 

 

the pillows - No Self Control (Live)

 

>虐待などが増えたのは、自己中心的
>な人が増えた結果です。
 
激しく同意です!
 
それこそが、「戦後左翼思想」のもう一つの側面と深く結び付いています。この側面はいわば、「私民主義」と呼ぶべきものです。さきほどの「左翼全体主義」がコミンテルン由来なのに対して、アメリカ由来のものです。
 
あなたは、「私民主義」の解毒剤として「愛国心」「集団意識」(事実上「左翼全体主義」と同じもの)が有効だとお考えです。しかし、歴史的な経緯は逆です。戦前、戦中の日本は「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に毒されていました。「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)が対米戦争への機運を助長したと考えたGHQは、自国文化の柱である《個人主義》を日本に植え付けることにしたのです。
 
しかし、日本に定着したのは、本来の《個人主義》とは異質なものでした。口では「個人の尊厳を尊重する」と言いながら、実際には個人の尊厳を踏みにじる「私民主義」が生まれ、そのまま定着してしまったのです。
 
「自己中心主義」である「私民主義」がなぜ、個人の尊厳を踏みにじることになるのか説明しましょう。
 
「個人の尊厳」という場合、それはただ一方的に「この俺を尊重しろ」と他人に要求する権利を意味しているわけではありません。それはまさに、《相互承認》として実現するものなのです。「個人」としては何人も同じ資格と責務を持つということ、そのことを互いに認め合うということを意味しているのです。
 
これは、逆に、他人の尊厳を脅かす者は、直ちに、尊重されるべき「個人」としての資格を失うということでもあります。
 
「個人の尊厳」を分析してみましょう。
 
個人=人格=自己規律的主体、自己制御主体
 
尊厳=至上性=拝跪・崇拝の対象としての相応しさ
 
ここでの「個人」は、単なる個体や自意識一般(自我)ではありません。自己規律的・自己制御的主体としての人格です。他人に隷属していないと同時に、自己の放縦を制御できること、自己自身の主催者であること、外的刺激によってかきたてられた欲望・衝動等々の奴隷ではないこと、そのような意味で「個人individuum(in不可-dvid分離)」であることが、すなわち自己の一貫性・一体性を放棄することなく保持し続けていることが、「尊厳」(=至上性=尊重に値する存在であること)には含まれているのです。
 
ところが、戦後日本においては、このような「個人」としての資格を問われることなく、単なる人間個体や自我が無条件に「尊厳」をもつかのような誤解が蔓延してしまったのです。
 
いったいそれはなぜでしょうか?
 
長らく「左翼全体主義」におかされていた我々には、社会性、公共性とは、自己の個体性や自我をより上位の者に預けること、自己制御、自己規律の義務と権利を放棄すること(「滅私奉公」)だという考えがしみついてしまっているのです。
 
しかし、この「左翼全体主義」の精神は、内容的にはほとんど批判されないまま、臭いものにふたと言わんばかりに、神棚に祭り上げられて、大多数の日本人からは、批判されないまま無かったことにされただけでした。
 
しかし、如何に我々が忘れたふりをしても実際には我々の体に染みついています。
 
自己規律、自己制御の習慣があまりない我々は、そのままでは、個人の尊厳を尊重し合うには、少々未熟なところから出発したのです。それでも、そのことを認め合って、「左翼全体主義」の責任放棄主義、事大主義、権力迎合主義を自己批判して、自己制御と当事者間の相互承認、当事者自治の自覚的訓練を積むことができていれば、私民主義が生まれるようなことはなかったでしょう。
 
しかし、実際に我々がやってきたことは、「左翼全体主義」の自己批判を忌避して、事実上放置し、ただ忘れたふりをすることでした。誠意ある人たちは、そのことこそが問題の根源だと気づき、いまようやく声をあげました。「愛国心と集団意識(左翼全体主義)を思い出そう。忘れてしまってはいけない。あれは立派な志だ!」と。
 
「左翼全体主義」の忘却が、戦後の頽廃、自己中心主義蔓延を助長したのだというご指摘は、正しいと思います。しかし、「愛国心」「集団意識」(「左翼全体主義」)に誇りを持つことによっては、自己中心主義(「サヨク私民主義」)を克服することはできません。
 
なぜなら、述べてきたように、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、まさに相互補完的な関係にあり、表面的にはたがいに敵対しつつも、深部においてたがいに支えあっているからです。
 
「左翼全体主義」の無視や忘却こそ、戦後の頽廃を助長したものだという正しい直感を生かすためには、「左翼全体主義」(滅私奉公)の自己批判から始めなくてはならないのです。
 
もちろん、ほとんど同時に「サヨク私民主義」への批判も開始されなくてはなりません。ってぇか、「左翼全体主義」と「サヨク私民主義」は、表裏一体ですから、一方を批判することは必然的に同時にもう一方を批判することになります。
 
☆To Be Continued !
 

 

The Oblivians "What's the Matter Now?"

 

 

 
>個人の尊厳を守りすぎたから、か
>えって「思いやり」が廃れ…僕はそれ
>を極めて嫌う為に、個人の尊厳と対
>立する「愛国心」「集団意識」を大切
>にしようと考えている
 
大変素直な考え方です。しかし、それが「戦後左翼思想」なのです。より正確に言うと「戦後左翼思想」の「戦前左翼思想」(コミンテルン由来)から継承された側面です。
 
北朝鮮の金体制や中国の共産党独裁や連赤の同志殺し等々は、全てこのような思想と結びついています。組織や集団の目的のために個人を生贄にしてよいという考えです。
 
学生時代に友人から『革命的青年の手本』という本を渡されて「すっげぇ、笑えるから読んでみろよ」と言われました。革命中国の青年の日記という体裁なのですが、なぜか日本語で書かれていました。
 
内容は、ある中国奥地の村へ下放で送られた都会のインテリ青年が毛沢東の命令に従って農業支援等下放政策を実行することが中国の明日を拓くと信じて、時にインテリとしての自分のひ弱さを自己批判しつつ懸命に働く姿が描かれています。
 
最後の部分は忘れることができないエピソードで締めくくられています。
 
そのころ中国では、電化事業が推進されていました。といってもいきなり電力網をということではなく、まずは電信・電話の全国普及をということで通信電柱の設置が大規模に進められていたのです。
 
例の青年が送られた村でも、近くの川に電柱用の丸太を何本も浮かべ工事に備え準備が進められていました。
 
そんなある日、村を大洪水が襲いました。
 
下放青年は、川べりへ、丸太を心配してやってきました。ロープで岸につなぎとめられた数十本の丸太は、増水した川の激しい波に洗われ、いまにも流れ去ってしまいそうです。
 
彼が心配そうに丸太を見ながら、仲間の青年たちに言います。「あの電柱は、ただの電柱ではない。毛主席の声を、中国中の村という村、町という町に送り届けるための大切な電柱なのだ…」。
 
そうこうしているうちについに丸太をつなぐロープの一部が切れ、丸太が一本、また一本と流され始めました。それを見た主人公の青年は、上着を脱ぎ捨て、「みんな俺について来い!」と叫ぶと危険を顧みず、荒れ狂う濁流の中に身を投じました。
 
電柱に使おうという大きな丸太が数十本濁流にのまれて流れていくのです。生身の人間が飛び込んで素手で何をしようというのでしょう。単なる無謀な自殺行為です。
 
しかし、そのような愚かな行為がこの本では『手本』とされているのです。
 
もちろん、毛沢東個人のために身を投げ出せとは、中国共産党も言わないのです。その代わりに、毛沢東は中国人民の星、毛沢東は人民の象徴で、毛に尽くすことは人民に尽くすことだというのです。
 
「個人の尊厳と対立する『愛国心』『集団意識』を大切にしよう」
 
これは「左翼全体主義」と同じ考えです。
 
あなたは、「戦後左翼思想」のある一面に反対するあまり、同じ思想のもう一つの側面に取り込まれてしまっているのです。
 
☆ To Be Continued
 
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Neil Sedaka - The Diary (1958)

 

 

かれ――正統派ユダヤ教徒でリトアニア出身のイェシャヤフ・レイボヴィッツ(1903 年生)――によれば、シオニズムとは本来、「外国人の支配に甘んずるのはもうたくさんだ」という考えに発する運動である。したがって、ユダヤの民の国家的独立は、その意味においては大変意義がある。しかし、独立によって、ユダヤ人の問題が何一つ解決されたわけではない。それなのに、建国を宗教的意義と結び付けるのは国家を聖別することになり、シオニズムは、国家を至上目的としたときに起こる過ちに陥っているという。

(市川 裕「ユダヤ教正統主義から考える現代の国家・宗教関係」)

 

レイボヴィッツのこの言説は、以下の問いへの一つの回答となっているといえるのかもしれない。

 

 中東政 治 の中 で イ ス ラ エル国 家 を あ つかう 際 に シオ ニズ ムが 帝 国主 義 、領 土 拡 張 主 義 な ど と い わ れ る が 、 イ ス ラ エルが 帝 国 主 義 的 勢力 と結 ん だ こ と、 あ る い は 戦争 の 目標 が た えず 領 土 拡 大 に お か れ てい るか のよ う に み え る の は 、 い わ ゆ る シ オ ニズ ム に よ るも の な の かど う か。 シ オ ニズ ムが 本 来 資 本 主 義 的 膨 脹 主義 を 内 蔵 し て い る の か 、あ る いは 東 西冷 戦 体 制 のも と で国 家 的 生 存 のた め に不 可 避 的 に イ スラ エルが と ら ねば な ら な か った 国 際 外 交 の様 相 な の であ ろう か。(田口幸子「イス ラエ ル に お け る シオ ニ ズム の 変 質 過 程 と今 日的 意 義 」)

 

少なくとも、外形的には、近代的なネーション・ステートの様相を持つ世俗的国家を、「聖別」することによって、この国家の防衛と拡張が宗教的にも支持されるべき至上命題となる。それは、結果的にシオニズム自体が「 ユダ ヤ資本家といわれていた人たちと 、 英仏帝国 主義政府との双方の利害を計算してのとりひきの道具に使われたものであったにすぎない、かもしれない」(前掲、田口論文)という懸念さえ生み出すことになったのである。

 

 次に、『トーラーの名において シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』(菅野賢治訳,平凡社)についての青木良華による書評を取り上げよう。

 

著者ヤコブ・M・ラブキンは,1945年に旧ソ連レニングラードに生まれた敬虔なユダヤ教徒であり,現在はカナダ,ケベック州モンレアル大学で歴史学を講じており,ロシア史,ユダヤ史を専門とする。2008-10年には三度日本に滞在し,東京大学や同志社大学,明治大学などでシンポジウムや公開講座を精力的にこなしている。

 

 本書の特徴を青木は次のように整理する。

 

本書において著者は,「シオニズム・イスラエル国家=ユダヤ教」という世界的に広まってしまったステレオタイプに疑義を呈することを狙いとし,シオニズムと伝統的なユダヤ教の考え方の対立を,メシアニズムや武力行使,ショアーの解釈など様々なテーマの下に論じている。著者は,「この2世紀の間におけるユダヤ人の生活に特徴的な見解と立場の多様性がユダヤ教とシオニズムの間を区別するのに役立つ」(P.4)と述べているが,本書全体を通じて伝統的なユダヤ教の多様な考え方の根底にはトーラーへの忠誠という大きな共通点があるということも強く主張されているように思われる。

 

ハレーディのユダヤ教徒たちの間ではトーラーの名において,そしてユダヤ教の伝統の名においてシオニズムは拒絶される。彼らにとってシオニズムとは,ユダヤ教の魂に内部からの腐敗をもたらしたもの,ユダヤ・アイデンティティをトーラーへの信仰から世俗的なものへ変化させてしまったもの,ユダヤ教の伝統を否定する脅威となるものであった。著者はこうしたトーラーへの献身という視点からなされるシオニズムへの抵抗の歴史を描くことを主眼とする。

 

 この「トーラへの忠誠」は、以下のようなシオニズムへの疑念へと繋がっていく。 

ハシディームやミトナグディーム,改革派や近代正統派など様々な立場のユダヤ人が含まれるが,シオニズムとイスラエルを評価するにあたってトーラーの戒律と価値を中心に据える点では彼らは共通している。また彼らは,イスラエル国家は「シオニスト国家」であって「ユダヤ人の国家(Jewish State)」ではないと主張することで,ユダヤ教の伝統に照らせばシオニズムやイスラエルはユダヤ的なものとは言えないのではないかと絶えず問いを発している。

 

 シオニスト国家がどのように非ユダヤ的なのか。

シオニズムが集団としての運動に発展したのは, ユダヤ人が社会的・政治的に不利な立場に置かれていたロシアにおいてであり,ロシアからのユダヤ移民がシオニストの行動主義の核を形成することになる。こうしたシオニストの間では,イスラエル建国を不可避のものと考える目的論的(teleological)な歴史記述が幅を利かせているが,これは離散(exile)という悲劇を含めてユダヤ人の身に起こった全てのことはユダヤ人自身の行為にその責任があり,そのため悔い改めの必要があると考えるユダヤ教の伝統的な感性とは対立するものであった。 

宗教的自省の中で神の許しを待ち、トーラを守り続けるという姿勢ではなく、人為的・世俗主義的手段に訴えて国家を創設する行為は、神の意志に反するというのである。

 

 青木によれば、著者ラブキンは、こうした「伝統的な感性」を一枚岩的、画一的なものとはとらえていない。

(反シオニストと非シオニストの諸潮流の間で)離散の中に生きているという自覚は共有されており,これをユダヤ人によるトーラーからの離反に対する神の罰と捉え, シオニズムを人間の手によって聖地を獲得しようとする異端として批判する。著者はそれぞれの宗教的信念に基づいてシオニズムを批判する人々の間でのユダヤ教の幅広い潮流を見ることで, トーラーの名においてなされるシオニズムの拒絶の広がりと起源を理解しようと試みている。 

シオニズム批判が、エキセントリックな、排他的思想潮流からのみ出てくるわけではないということを明らかにしようとしている。

 

 他方、シオニズムの成立についての議論は、次のように紹介されている。

解放によってユダヤ人が周囲の社会に溶け込んでいった西欧の実情に触発され,シオニズムの理論家アハド・ハ=アムは,ユダヤ教がユダヤの民族的アイデンティティの一つの選択的な側面にすぎないと主張した。この考えが同化の進展が緩やかであったロシアに持ち込まれたことで,「非宗教的ユダヤ人(secular Jew)」という新しい概念が生まれた。これはユダヤ・アイデンティティから宗教的・規範的な特質を取り除き,生物学的・文化的な特質のみを保持しようとするものであった。この観点からするとシオニズムと人種主義的反ユダヤ主義との間に利害の一致を見ることすらできる。

「利害の一致」は極論と見えるかもしれない。しかし、青木の言わんとするところは、「ユダヤ民族」という世俗的アイデンティティーを確立しようとするシオニズムと、そのようアイデンティティーの実在性を認めることによってスケープゴートとしての「ユダヤ人」を特定しようとする反ユダヤ主義は、「ユダヤ・アイデンティティー」の実在性を強調するという点で一致しているということである。

 そして、ここで指摘しておかなければならないのは、このような世俗的ユダヤ民族主義は、ハザール王国を淵源とする白人系のユダヤ教徒の間――といってもその支持者は、少なくとも当初は彼らの中のごく一部に過ぎなかった――で生まれたものであって、非ヨーロッパのユダヤ教徒は初めから埒外に置かれていたということである。

 

〔未完〕