今西 一「国内植民地論・序論」 『商学討究』第60巻第1号
西川長夫の現在のグローバル化を,〈新〉植民地主義として捉えようという「警鐘」の正しさが(『<新〉植民地主義』平凡社,2006年),皮肉にも昨年の経済危機から一層のリアリティをもって迫ってきている。沖縄でも,近年,沖縄の軍事的・経済的従属の問題を,再び国内植民地論で捉えようという議論も現れている。日本の近代史では,むしろ国内植民地論は忘れられた議論になっているが,私は再考する必要があると考えている。本稿はそのためのひとつの試みである。
国内植民地概念を,より精椴に展開したのは,デール・ジョンスンの業績である。ジョンスンは,「国内植民地という概念は,何人かのラテンアメリカ知識人の著作と,アメリカでの黒人解放運動という,二つの独立した源泉に,その主な起源をもっている」と説明する。そして,「国内植民地とは,人種的,言語的および(あるいは)顕著な文化的差異に基礎を置き,また同様に社会階級上の差異にも基礎を置いた,社会内部での社会を構成している」とし,「地域的国内植民地」と,「人種および文化を基盤にした国内植民地」とを区別する。
人種的,言語的,顕著な文化的差異にもとづく,また同様に社会階級上の差異にももとづくた,社会内部の社会というのは,被差別のマイノリティー集団の定義と十分に判別可能であるとは思えない。地域的なものとそうでないものの区別を導入してもその点は変わらない。
彼は,「国内植民地とは,まずもって経済的現象である。経済システムの進行は植民地を生み出し,後者は一国のメトロポリス(後発国のケースでは,さらに国際的メトロポリス)に対して衛星部として機能する」。「階級構造は,寡頭支配階級と大衆という二分法を骨化させる。フランクが「低発展の発展」と呼んだ過程が生じる」とする(James Cockcroft et al., Dpendence and Underdeveloρment,Anchor Books,New York,1972,chap,lO) 。
国内的減少として大都市に対する辺境地域、富裕層(経済的のみならず文化的・政治的優位の保持者の層)に対するマイノリティー集団の間に格差が所持固定される。途上国における後者(辺境地域とマイノリティー)は、先進国の諸都市や上層階級からも支配と収奪の対象として扱われる。確かに,このような経済的その他の支配―従属,搾取―被搾取の関係を導入することで一応単なる被差別集団との区別はできる。
一先ず先進国の国内について考えてみよう。国内植民地とは,例えば停滞的過剰人口であり,その地理的集積地であるといえるのだろうか。地理的な集積の場合も,国内の特定地域の全体をそのように位置づける場合もあれば,近代化のプロセスの中で特定地域にそうした過剰人口が次第に集積してくる場合もあるということだろうか。ジェントリフィケーションによって証した空間(地理的場所)が,改変される――場合によっては抹消される――ということも植民地化の帰結といってよいのだろう。
彼の議論は,経済システムの進行が植民地を生みだし,階級構造を固定化させたように,国際的な中枢-周縁だけだはなく,「国のメトロポリス」もまた,中枢-周縁をつくりだし, 周縁を国内植民地化させていくというものである。これらの議論を受けて,マイケル・ヘクターなどは,その『国内植民地主義」(Michal Heeter, Internal Colonialism : The Celtic Frinbein British National Development, 1536-1966. University of California Press, Berkely,1975)のなかで,国内植民地主義を「文化的にことなる諸集団の中枢部による政治的統合」と規定して,16世紀から現代までのアイルランド・スコットランド・ウェールズなどを国内植民地とする。ヘクターは,ジョンスンとは違って,国内植民地主義を,「文化的にことなる諸集団の中枢部による政治的統合」として捉え,「政治的・文化的」統合の役割を強調する。
今度は,このヘクターの定義によって「国内植民地」概念は,エスノクラシー概念に著しく接近していく。
山崎もまた,ウエツブの議論を受けて「国内植民地として地域的ないし集団的に搾取されると考えるのは,生産関係を暖昧にし,それを支配・被支配のメカニズムと同一化することになりかねないのである。 民族は,マルクスの言葉をパラフレーズして言うなら,支配階級としてのみ実在する。 支配階級はそのことによって, 一方では国内被支配階級を同一の「民族」による統治という外見を押しつけることで,前者の歪みを拡大させ,さらに「民族」解放闘争を惹起させる」というのである(58頁)。階級聞の支配と「民族」聞の支配を区別しない国内植民地主義論では,被支配階級をも包摂してしまう「民族」イデオロギーと,有効に対決できないというのである。
山崎氏の使っている「前者」が何を指すのか,読み取れない。"「民族」解放闘争"も誰からの解放を意味するのか分からない。山崎の主張の今西によるまとめも山崎の言わんとするところを正確につかんではいないようである。山崎は,単純に「民族」と「階級」とを区別すればよいといっているわけではないようだ。自らを支配的地位に引き上げた階級だけが「民族」性を代表できるといっているようにも読める。そう読んでよいのなら,「前者の歪み」は依然として不明だが,"「民族」解放闘争"の方は,多少の手掛かりが見いだせた気がする。たとえば,被支配階級が支配階級が代表する既存の「民族」性に代わる新たな「民族」性を構築する試みが"「民族」解放闘争"だといいたいのかもしれない。しかし,「階級としての彼ら自分自身の支配を揚棄する」ことを目的とする労働者階級の自己解放の闘いは,そのような「民族」性を再構築する闘いとは別のものでなくてはならないだろう。「民族」形成的な革命は,結局のところ資本主義を再生産するものとなるものと思われる。
つづく
